書き逃げ

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『ガンダムUC』vs.オールドタイプ

機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を、つまりテレビ版を最終回までやっと見た。

 

無知全開で、というのはこの作品にまつわるサブテキスト的なもの(もちろん原作の小説も)をほぼ入れることなく、さらにこの作品自体をちゃんと見直すことなく、最終回を見終わったあとに沸き上がってきたフィーリングのみで感想を書こうと思っている。間違いの指摘などあればぜひ。でも、あんまりディテールについて書くことはないと思う。

トピックは大まかに以下の4つだ。

1.ニュータイプって結局、超能力なんか?

2.フル・フロンタルの便利さと最終回での「なんやったんやあいつは」感。

3.「おっさん接待」以外にいいところがあったのか?

4.『イデオン』的世界観と『ガンダム』的世界観の食い合わせの悪さ。

 

最後まで見ない内の大まかな感想は、それはもう「こんなええもん見せてもろて……!」ということにつきる。

モビルスーツがビームで溶けたり、打撃でくだけたりするところをこんなに細かく、気持ちよく見させてもらえたら、そりゃあ京極はんも感涙だ。安彦デザインっぽいキャラデザもたまらん。

「これや! ワシが食べたかったんはこれや!」

おっさんたちもコースの初めの頃はそう思ったに違いない。わたくしは、コースの終わりのほうで違う味がしたからと言って、全部台無しだったとは思わない。よかったところはよかったし、それだけでも存在意義がある作品だったと思う。

 

1.

機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を見る限り、ニュータイプって「サイコフレームによって能力を拡張される超能力」に見える。これ、オカルト……というかイヤボン(ex.『サルまん』)的なものに見えて仕方ない。

ようは「この能力で何でも出来るやん、あんな人型機に乗らんでもええやん」という気持ちになってしまうということだ。

富野由悠季は多分、ニュータイプがどういうものかについてはぼんやりとした、尻尾を掴まれないような物言いをしていたように記憶している。しかし、こういう概念、というと上等な感じがするが、こういう設定をファーストに導入した理由を改めて想像させられたのだ。

ファーストにとってこの設定が都合が良かった理由の一つは、「主役機を変えなくていい」ということがあると思う。「替えなくて」としたほうがいいかもしれない。「リアルロボット的な世界」で、主人公が乗る機体を変える(替える)のは、「スーパーロボット世界」でよりもあまりよろしくなかろう。「強い敵が出現→より強い機体に」というインフレは「リアル」には感じにくい。

(もちろんこの問題はスーパーロボットにおいても存在している。ザブングル以前は逆に「主役機を変える」という発想がなかったため、主役機はそのままにジェットスクランダーが付いたり、パーンサロイドに合体したりして主役機を強くしていたわけだ。)

(Gファイターの話とかは省きますよ。そもそも横道の話だから。)

何が言いたいかというと、ニュータイプという設定は、「それほど嘘っぽくなく、主役を強くさせる理屈」としてまず導入されたんだろうなと思ったわけです。ついでにララァとの展開も、最終回も盛り上がるしね。だからニュータイプの能力はファーストの作中では「勘がいい」という風にしか描かれなかった。

それぐらいのものだったはずが、間に『Z』とか『逆シャア』とかあったにしても、ここまで万能になってしまうとなあ……と感じざるを得ないわけだ。

別に「ニュータイプという概念」が大活躍するところを見たくてガンダムを見るわけじゃないと俺は思うのだ。あくまで作劇上の方便だと捉えている。でも、人によっては「ニュータイプという概念」こそがガンガムシリーズを特別な作品群にしていると思うのかもしれないなあ、と思わされた。これは結構、深い溝である。

 

2.

ガンダムである以上、シャアは出て欲しい。それはもう、3.での話と密接に関わるが、シャアみたいな人が出て来ないとガンダムっぽく感じないのは仕方がない。

今までのシリーズでも「誰がシャアの役かな?」みたいな視点で見ていたわけで、そこを「赤い彗星の再来」という設定のフル・フロンタルを堂々と出してきたのは潔いと思った。庵野秀明に『シン・ゴジラ』でエヴァとのかぶりを気にしない勇気を与えたとも言われている(ウソ)。

シャアっぽいセリフを言ってくれるだけで嬉しいし、そもそも池田秀一の声なんだから聞けるだけで嬉ションで座面が湿るレベルだ。

だが、終わってみると「あいつなんやったんやろ?」という気持ちになる。「シャアみたいな人」以外の何でもないわけだから。しかし、本当に「シャアみたいな人」があの時代にいたとして、「ネオ・ジオン」て作るかね?

あれは「そっくりさん」だよね。ということにこの作品でもなっているわけだが、そういうやつがあれだけの組織を作れるものなのだろうか……。小説版にはもちろん色々書かれているのだろうな。ウィキペディアを強い心で見ないままにこの稿を終わる。

 

 

3.

ファーストガンダムを幼少期に見ていたおっさんとしてはたまらん映像が一杯出てきて、座面の乾く暇がなかった。もうそれだけですべて許す、というか許すなんて上から目線ではなく、感謝の気持ちに満ちあふれいてる。スタッフの皆さん、本当にいいものを見せてくれてありがとう! こういう映像が見たかったんです。最初のシナンジュとの戦闘シーンとか、思わず本気の声が出た。

これは『Gレコ』や『オルフェンズ』を見ていても感じなかったものなので、「新しいガンダム」ならいいということではない。この作品ならではの感想だ。もちろん『スター・ウォーズ エピソードⅣ』が特別篇になったときにもちらりとも感じなかった。

しかし、お話は正直、「ニュータイプという概念を便利に使って色々解決」というふうにしか見えず、ファーストやZを越える何かは感じられなかった。オールドタイプ(=おっさん)ゆえの感受性の鈍磨であろう。

もっとためになる感想はこちら。

d.hatena.ne.jp

(あらかじめこちらを読んでいたにもかかわらずこの体たらくだ)

 

4.

これももちろん想像だけで書くわけだが、原作はガンダム的世界とイデオン的世界を橋渡しするような、富野由悠季作品を統合する世界観を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。魂がたくさん集まっていく、みたいな映像も時々挿入されていたしね。

その意気やよしなのだが、うまくいかなかったんじゃないかなあ……。しかしそれは、ガンダムが「リアルロボット路線」の嚆矢であり、イデオンが皆殺し皆殺しアンド皆殺しプラスニューエイジみたいないびつな作品だという知識=先入観が俺にあるせいで、気にしない人は気にならないのかもしれない。

オールドタイプは、ガンダム(=リアルロボット路線)だったら勝敗は機械の性能とパイロットの能力で決まって欲しいなと思ってしまうわけだ。そこを戦術でなんとかするとかね。ネオ・ジオングと戦って勝つ理屈を、あんな何かがピカーッと光って急にパワーがあふれ出すみたいなことではなくやってもらったほうが楽しめるのである。

イデオンなら何を起こしても問題はない。あれはわけの分からん先住異星人の遺構なのだから。しかしガンダムはそうではなく、コロニーレーザーを気合い一発で止めちゃったりせず、発射させないようにするところをサスペンスおよびドラマにして欲しいなとオールドタイプは思ってしまいました。

チャーハン成功譚・檀一雄風

写真を撮るマメさがない自分が悔しい……。

先日来の自炊、料理生活の一つの山場として、チャーハン作りに成功しました。野菜を炒める、麻婆系のものを炒め煮するというのとは違い、失敗すると大惨事になりそうなチャーハンには怖じ気づいておりました。しかし実際やってみると、ポイントさえ押さえればすんなり出来たので、嬉しくなって中華お玉まで買いましたよ。

ということで、画像はないので、大雑把料理文学界の先達である檀一雄先生にならって、読めば大体美味しいチャーハンを作れる文章を残しておこうと思う次第。

 

 

ある程度、中華鍋の使い方に習熟してくると——習熟してなくてもその味の良さのために——チャーハンを作りたくなる人は多いだろう。ぱらりとした飯に油が絡み、少し焦げた葱の香りがしたものをわしわしと、むしろざららざらと流し込むぐらいの勢いで食べるときの満足感は、格別なものだ。具材なんかは特別なものは邪魔で、ハムかチャーシューの切れっ端でもいくらか入っていればいいので、ようはパラパラした飯の食感と油との相性を食っているようなものなのだ。

特殊な、手に入りにくい道具や材料は不要だ。ただ、私が中華鍋を使っているから、これから以降は中華鍋を元にした作り方をご説明する。お玉も、現在は中華用のものを使っているが、私が最初に作ってうまくいったときは間に合わせの穴あきお玉だったのだから、必ずしも必須ではない。

 

まず具材を切り、すべてガスコンロの横に揃えて置いてもらおう。白ネギを10センチばかり粗みじんに切っておく。ハムなりチャーシューなりをこれも5ミリから1センチ角ぐらいに細かく切っておこう。ニンニクも一かけ、粗みじんにしておく。

肝心な飯は、必ず堅めに炊いておくこと。柔らかい場合は見送った方がよい。量は、多くても茶碗に一杯半までだ。それ以上多いと、いくら貴君の中華鍋が大きくとも、素人の手には負えかねると思う。

実は理想的なのはパックご飯である。これを電子レンジで温めたものは、もちろんメーカーによる違いはあるだろうが、ちゃんとパラパラにほぐれてくれるのである。

他に用意すべきは、卵を2個あらかじめ割って解きほぐしておくこと。塩とこしょう、醤油もコンロの脇に置いておいた方がいいのはもちろんだ。

さて、中華鍋をガスコンロで温める。これは中途半端な温め方ではお話にならない。中火で構わないが、家庭用の火力であれば、2分から3分は確実に温め続けなければならない。鍋から煙が上がり、それも終わって鍋の色が青白く変色してくるぐらい、辛抱したまえ。

温め終わったらまず油返しだ。お玉二杯分ぐらいのサラダ油を鍋に入れ、全面に回して馴染ませる。油は捨てるなりオイルポットに入れるなりして、いったん火を消し、そこに新しい油を多めに入れる。大さじで2杯ぐらいが適当か。

そこにニンニクの粗みじんを入れ、小さい火で温める。すでに鍋は熱を持っているので、小さい火でもすぐにニンニクの小片は揚がり始めるだろう。香りが立ち、ごく細かいものが茶色になり始めたら、すぐに次の工程だ。ニンニクが焦げてしまうと苦みが出る。

火はそのままで卵を投入する。すかさず飯も追いかけて入れる。「卵が半熟になったら」というノウハウもあるが、そんな余裕は素人にはない。たいていもたもたしている間に半熟になっているものだ。早くするにしくはない。

すぐにお玉の丸いほうで飯を押し広げる。かつまた、飯の固まっているところを切るようにしてほぐし、お玉でか、あるいは鍋を振って飯を裏返すなどする。飯を鍋肌に押しつけて焼くのと、ほぐすのを交互にしていくわけだ。

これをある程度繰り返していくと、飯粒に卵がまとわりつき、段々とそれぞれが分離、独立していく。そうなってきたところだ、火を強火にしたまえ。

そこでハムかチャーシューかを中に加える。塩を二つまみほど、こしょうをたっぷりふる。そこからさらにいためて飯の水分を飛ばし、表面をぱりっとさせるわけである。

飯がさらりと鍋肌を滑るようになったら葱を入れ、少しく炒めて葱の香りが立ったら、鍋肌から醤油を少し垂らし、ざっと混ぜて出来上がりだ。最後にごま油をたらし込んでもまた香りがよい。

 

「檀流クッキング」に似たかな……?

「ここが大事だな」と思ったのは、卵とご飯を入れ、ある程度ほぐれるまでは小さい火でよくて、ほぐれてから強火にするってところ。これは空焼き&油返しをしっかりしているから出来ることだと思いますけどね。

中華料理の強火幻想は根強いし、ネットでの調理動画でも基本、最初から最後まで強火だけど、ほぐすところまではじっくりやっても大丈夫でしたね。

ヒップホップに再入門しようとしたら違う世界が広がっていた。

前回、アナログがどうかとか書いておいて、主にCDで買ったアルバムの話をしたい。

一昨日の夜、久しぶりに『イーザス』を聞き直した。

vimeo.com

(映像は勝手に作ったもののよう。曲も勝手に使ってるってことになるか)

これ、発売された時にもかなりいいと思っていた。だからこそ聞き直そうと思ったわけだが、今回聞いたら、またちょっと聞こえ方(っていうのも変だが)が変わっていた。より面白く聞けたし、カニエ・ウェストという人がどうしてこういう音像を作ったのか、そもそもどういう音像を目指そうとしたのか、みたいなことがちょっとだけわかるようになっていたからだ。あくまでちょっとだけですよ。

 

カニエに対して俺が持っていた大まかなイメージは、「新しいパフ・ダディ」みたいなものだった。……あ、その前に書いておいたほうがいいことがあるな。

わたくしは昔、結構ヒップホップが好きで聞いておりました。2000年ぐらいまでは比較的ちゃんと追いかけていたと思う。なので黄金の90年代は知っているけど、2000年代からは全然疎い。エミネムとか聞いてないし、ジェイ・Zもそんなにピンと来なかったので聞いてない(後から追っかけて聞いて、やっぱりトラックはピンと来なかったけど、ラップは確かにこういう上手さってあるなと思ったりした)。

というような雑な聞き方をしてきた者です。

で、大雑把に「パフ・ダディよりもう少しちゃんとした人」みたいなイメージだったわけだ。

分かってなくてすいません。

そんなイメージしかなくて『イーザス』聞いたら、そりゃ意外に思うわけだ。あんなにポピュラリティーの高い音を作っていたんだから、何かないとこんな(ミニマルでインダストリアルと言ってもいい荒々しい)音を作るようにはならないだろうと思った。でも「何か転機があったんだろうな」と思いつつ、それがなんなのかはあんまり深く考えず、聞いて楽しんでいたわけだ。

ざっくりした印象を書いたが、実はそれほど「ザ・インダストリアル」な音はないアルバムだ。でも、サンプリングもその他の音も非常に尖った、耳に刺さるような音に処理されていて、インダストリアルだなあという感触を受ける。音数の少なさはLLクールJの『Radio』かと思っちゃうよね。超ミニマル。

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それから数年経ち、去年ぐらいから俺の中でまた、ヒップホップを聞こうという気運が高まってきた。そのきっかけについて詳しくは稿を改めようと思いますが、大きかったのはケンドリック・ラマー。出た! やっぱりか! という感じでしょう。

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ケンドリックのラップの(というか英語が聴き取れるわけではないからフロウの、と言ったほうがいいか)よくわからなさ、わからないけど何か特別なものがあると感じさせるところは、昔、苦心してヒップホップをわかろうとしていた頃のことも思い出したりして、ぞくぞくした。

それと、このアルバムにも関わっているカマシ・ワシントン……。

は、「スピリチュアルジャズだなあ」ぐらいでそんなにうおおすげえとまでは思わなかったんだけれど、彼もそのムーブメントの一部である(らしい)「新しいジャズ」の旗手(らしい)フライング・ロータス

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(これ、ケンドリックのラップがフィーチャーされてるしね)

こちらもいいアルバム。

 

フライング・ロータスは本当にいいと思った。素晴らしい。

(しかし、「新しいジャズ」もう一方の雄(らしい)ロバート・グラスパーはどうもピンと来なかった。昔『ブラック・レディオ』を(ちゃんと買って)聞いて「そんなに凄いか?」と思ったのだが、フライング・ロータスによって耳が更新された今ならまた違う感じで聞けるかも! と意気込んでまた聞いてみたところ、そんなに感じ方は変わらなかった。

なのに「今度は違うかも」と思ってこれも買ったりして。

こっちは何回か聞こうという気になれた。マイルスの元曲という“補助線”は、かなり強力で、面白さは増す)

 

話がずいぶんカニエから離れてしまったが、カニエが目指した音像の一つはフライング・ロータスのようなものだったのだろうと思ったわけである。ジャズがこういう音像をゲットする……というかこういう音にまで変化する時代において、強いインパクトを与えられる作品を考えた結果が『イーザス』の音だったのだろうなあと思った。

 

そしてもう一方にこういう音もあることを知った。

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 Arcaが『イーザス』にも関わっている、ということは後で知った。こちらもとても面白く新しいと思った音だ。愛聴してます。

エレクトロニカの新鋭が作ったこういう音にもカニエは反応した、というよりも危機感を抱いたのではないかと思うのだ。カニエの、そういう貪欲さや敏感さ、その元になっているであろうある種の「臆病さ」が凄いな(凄かったんだな)と、改めて『イーザス』を聞いて思った次第だ。彼のそういう凄さはアートワークやファッションなんかについてもそうなんだと思うけど、その辺は省略。

そういうわけで、今はまた比較的新しい音楽を聞きたい気持ちになっている。追っかけたい(「追っかけをしたい」じゃなく)。

 

詳しくないせいでとんちんかんなことを書いたが、恥の掻きついでにもう一つ。

今、「ヒップホップ」じゃなくて「ラップミュージック」って呼び方をしたりするのかな? あるいは「新しいヒップホップ」とか「ニューラップ」とかでもいいんだけど……。検索をしたところ、そんな概念を提唱しているページは見つからなかった。

(追伸。思い切り見つかったし、俺はこれを読んでいた。その上で完全に忘れいていた。怖いけど、こういうことってあるんだな。

ro69.jp

気をつけたいけど、どう気をつけたらいいかわからん……)

 

何が言いたいかというと、カニエもケンドリックも、トラックの“新しい部分”はあんまりヒップホップじゃないと思ったのだ。そういうところはエレクトロニカだったり「新しいジャズ」が担っている。ラップは乗っているけどトラックはヒップホップであることをやめてしまった曲がもう一大勢力になっていて、ジャンルとして確立しよう、「ラップミュージック」と呼ぼうみたいな話になってるんじゃないかと、かように想像したわけです。「ヘビーロック」とは別の流れのものでね。

アナログ盤 バイナルレコード 皿LP

最近、アナログ盤をよく買うようになった。これまではなんとなく、「デジタル制作されたものをアナログにした音を聞いてもなあ」みたいな気持ちでいたのだけれど、新譜を割と買っている。

もともとアナログの音は好きではあった。「デジタルと比べて音がいい」かどうかは正直わからない。ただ、CDと違う音なのはわかる。一応言うと、スクラッチノイズとかヒスノイズとかとは別にですよ。
デジタルとは違う理屈の音だなと思うのである。乱暴に言うと、「擦れて出てる音」「引っかいた音」っぽさがどこかにはあると感じるのだ。ヒスノイズとは別に。
例えばドラムとかトランペットの音って、そもそも全然擦られて出た音ではない。それを細い針で細い溝を擦ることで再現するわけだから、「叩いてる音らしさ」「管を共鳴させてる音らしさ」を演出して作っているように感じる。どこかディフォルメされているような、本物よりもその楽器の音のイデアに迫ろうとする努力の跡みたいなものを感じるのだ。
逆に、バイオリンとかチェロみたいな楽器だと、そもそも擦過音だからそんなに無理がないような気がする(ただし合奏になるとちょっと違う感じがする)。

 

馬鹿、そもそもマイクを通す時点で生の楽器の音とは違う理屈で記録されているんだし、さらにスピーカーはほとんどの楽器と違う理屈で音を出してるんだからデジタルかアナログかより前に「その楽器の音らしさ」なんてのは演出されたものだろ、と言われると確かにそうで、「ただそんな気がしただけなんです……」と小声で言うしかない。
デジタルに比べてアナログのほうがいい音! と言う気は全然ないんだが、そういう「無理してる」「人の耳をごまかそうとしてる」感じがする音が面白くて楽しく聞いております。

 

なぜ具体的な盤を挙げないかというと、アフィリエイトっていうのをしてみようかと思っているという下品な理由です。すまぬ……すまぬ……。

『ゴーストバスターズ』最高の瞬間の記憶

たった今、見て帰って来たところで書いている。

www.ghostbusters.jp

 

見終わった直後、思い出したことがある。

最初の『ゴーストバスターズ』は中学生の時に公開されたので、ズバリ直撃世代である。その頃相次いで公開された映画のことを「3G」なんつってね。若い人はご存じなかろうが、同じく特撮映画の『ゴジラ』『グレムリン』と併せてそう呼ばれていたのである。

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(考えてみると、ゴジラゴーストバスターズが今年、同じ年に復活したわけだ。まあ、ゴジラはその前にも後にもたくさんあったわけだが)

 

全部映画館に見に行った。で、背伸びしたい年代ということもあり、『ゴーストバスターズ』が一番面白いと当時は思った(『ゴジラ』は特撮がさえないと思ったし、『グレムリン』は子ども向けすぎると感じた)。いや、今でもこの3本の中ではそうかもしれない。でも、正直言って当時もあんまり面白いと思わなかったし、今見たら結構辛い。

と言っても(と逆接でつなぎまくる悪文で申し訳ないが)、やはり楽しんだのは確かだ。現在CGアニメで出来ることの限界が広がっているのと同様、当時はSFXの黄金時代であり、どことなくきらびやかな合成具合のアグリー・リトル・スパッド、結構ちゃんとグロく作ってあるタクシー・ゴースト、そしてもちろんマシュマロマンなんかの特撮には興奮した。ただ、ビル・マーレイの面白さなんかは子どものときはわからず、そして今になるともっと面白いマーレイの映画は他にあるわけで、やはり「面白い!」とはならないのだ。

ただ、当時見ていて、ものすごくフレッシュに感じた場面が特撮以外に一つあったということを今日、思い出したのだった。それは、最後の決戦のために、ゴーストバスターズの面々が建物に入っていこうとするところ。パトカーに先導されたECTO-1で現場に向かい、集まった市民が歓喜の声でゴーストバスターズを迎える。その声を背に4人が建物の中に入っていく。もちろん服装はつなぎ、背中にはプロトンパック。

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ストーリー上、ここは気持ちが上がるシーンなのは間違いない。それまでは、幽霊退治で一部の人は助けつつも胡散臭いと思われていた4人が、ニューヨーク市民に受け容れられ、期待され、戦いに赴くシーンなのだから。

具体的に中学生の俺がどういう点をフレッシュに感じたか。

がんばって言語化してみると、まずは「本当っぽく見えた」という、単純でバカっぽい要素は否定できない。群衆の様子が本当っぽかった。エキストラの質が(練度が)高かったのかもしれないし、後は真っ昼間に、相当広いところで大勢いるのがリアルに感じられたのだと思う。

そして、これがキモだと思うのだが、映画の中の主役が臆面もなく「ヒーロー」として扱われる様子が新鮮だったのだろう。たいていの場合、主役を映画の中でヒーローとして扱いすぎると嘘くさくなるものだ。だからこそ映画の中ではスーパーマンですら「特別な力を持った存在」としては扱われるが、ヒーローとして遇される時間は少ない。バットマンなんか人目に付かないように主に暗闇でこそこそしていて、それゆえにヒーローだったりするわけだ。

しかし、抜群の安定感の抑え投手登場時のようなアメリカンな歓声であの4人は迎えられる。そうなっておかしくないストーリーになっているし、そこでのカタルシス(を狙った作り)が中学生の俺にとっては新鮮だったのだろう。あの群衆にとってのゴーストバスターズと、観客である自分にとってのゴーストバスターズがばっちり重なる瞬間に快感があったのだと思う。「行け! いてもうたれ! ゴーストバスターズ!」って。

書きたいことはこれだったので、もう話は終わりますが……残念ながら今作にそういう瞬間はなかったですね。

 

モフモフCG映画『ジャングル・ブック』

『アイアンマン』(と『アイアンマン2』)のジョン・ファヴロー監督作ということで見に行った。

多分、近年では一番好評の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』は未見。3Dでもなく、もちろんIMAXでもない、ごく普通の2D字幕版。3Dで見たかったなーと思った。

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アニメの『ジャングル・ブック』は幼児期に見たことがあるはず。だけど、それ以降見ていないのでほぼ記憶にない。アニメを元にした絵本も見ていたような気がするのだがなあ……。

ディズニーアニメで伝統的な動物の擬人化という手法は、いわゆるCGアニメで進化・発展が著しい。毛並みの表現、動きや表情の動物らしさと人間ぽさのバランスなどが、(観客の目からは“進化・発展”というよりは)「こういう表現の仕方があったか」という“新鮮なアイデア”として提供されるので、見ていて楽しい。映像表現の進化が楽しみとして味わえるわけで、このジャンルにとっていい時代なのだと思う。

例えば、『ボルト』の鳩。タマフル映画評の中でも「鳩の鳩っぽさがすごい」と言われていて、どういうものなんかなと結構後になってBDで見てみたら、確かにその通りで笑った。

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これもまたタマフル映画評で言われていた、『カールじいさんの空飛ぶ家』に出てくる犬もそうだろう。

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この犬っぽさって、漫画『動物のお医者さん』の犬ぞりレースをする犬たちの様子に似ていると思う(静止画を動画に脳内変換した結果)。

 

だが、今回は「実写映画」だ。カッコ付きにしたくなるのはもちろん、主役の子役はほぼブルーバック前で演技をし、CGの動物と合成するという作り方の映画だからだ。動物は超リアル。だけどCGなわけで、その点「CGアニメ」との違いはなんなんだ? ということを意識せざるを得ない映画ではある。

まあでも、最近のハリウッド大作はCGの比率が高いので、それはいつもうっすらとは感じていることでもある。

 

で、今作のバランスは、「動作は完全に動物(少なくとも前半は)、言葉だけ人間語」というものだった。

例えば、オオカミたちが悪役のベンガルトラ、シア・カーンに怯えるというシーンは、完全にオオカミの(というか犬の)怯え方。やや目を伏せて左右に泳がせ、その場で横に足踏みするというような、見たことあるやつだ。

身のこなしも、シア・カーンや、モーグリの後見人的なクロヒョウ、バギーラの、巨体ながらしなやかで跳躍力のある感じなど、実にネコ科の動物らしい。そういう点では「擬人化」ではなく、動物の動きを高度に再現し、かつ演技をさせたものというべきだ。『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』のCGトラのノウハウを使ったりしたのかなーと思った。

子オオカミたちは猛烈に可愛いし、バギーラも人格的にはしっかりしているけど出来ることには限界がある感じがいとおしく、とにかくみんなめっちゃなでなでモフモフしてやりたくなると思った。

ただ、後半、クマのバルーが出てきて以降は、結構擬人化された動きをする動物の比率が高くなる。これは計算だろうし、うまくいっているから別に気にならない。サルたちはそんなに動物っぽさを重視してなかったような。

 

ストーリーはですね(以下ややネタバレ)モーグリのしたことはあれ、絶対許されへんのちゃうか? と思った。そんなにギリギリとツッコミたくなるような映画ではないけど、あれはやっぱりなあ……。

パンドラの箱を開けるとか、蛇にそそのかされてリンゴを食べちゃうとか、腐海の胞子を谷でばらまくとかレベルの取り返しの付かないタイプの過ちだと思うんだけどなー。シア・カーンのほうが幾分かジャングルの生き物としては真っ当なことを言うてる気がしてならなかった。

「動物に仮託して、寓話的に社会の構造や善悪を考える」という面では『ズートピア』に比べて圧倒的に練りが足りない脚本だと思った。練っちゃうと『ジャングル・ブック』じゃなくなると判断したんだろうと思うけど、しかしあれはやっぱりなあ……。

わたくしにとっての美

いい話を知って幸せになった。

efight.jp

 

「私は何年も吉田選手のことを研究しました。まるで彼女の頭の中に潜り込むように、ただただ彼女が何を考えているのか知ろうと思いました」と振り返っている。

 しかし、マロウリスは勝利の喜びを語る一方で、吉田を研究すればするほど、ライバル心とは異なる感情を抱いたことを明かしている。「対戦相手の研究をしていると、その相手に対して敵対心を抱くと思います。でも、吉田選手に関してはそういった感情が芽生えませんでした。彼女から湧き出るレスリングに対する愛情や、彼女がどれだけ競技に自分自身を捧げているかが分かりました。私は彼女に対して深い尊敬の念を抱いていましたし、言葉で上手く説明できませんが、彼女にとても感化されました」と話した。

 俺たちは大抵、世俗的な成功・報酬について考えている。それが手に入りやすいものかどうか、手に入りにくいときは、それでも努力するだけのリターンがあるかどうか、確率や期待値なんかを大して良くもない頭で考えている。そして、その実現において邪魔になる存在がいたりしたら、その相手を自分にとって都合良く「敵」にしたり乗り越えるべき「壁」にしたりして、自分を鼓舞したり、失敗したときにはその存在を言い訳に取り込んで、「あんな凄い奴と戦えた自分も大したもんだ」みたいなことを匂わせたりする。

しょうもない。どうしようもないなあと我が身を振り返って思うのだが、自分への反省として、出来れば「両取り」を狙うことはしたくないと思うのです。話が逸れてるな……。

話が逸れついでに……。相手を絶対に負かしたいと思っていたはずなのに、負けたらすぐに「いや、あいつと戦えただけ、俺も大したもんだ」みたいにあっという間に自分を楽にするようなワードをあらかじめ用意しておくようなことはしたくないな、ということです(なんかもしかして五輪出場した選手をなじってるみたいになってないか? いや、これは自戒ですよ本当に)

 

そういうわたくしのようなウジ虫の如き妄念とは違い、アメリカにおいて社会的に報われることが少ないレスリングという競技で、吉田という「敵」を、知るにつれ尊敬の念を抱いたというところに、ある種の美を感じるわけです。三国志か!? 関羽に対する曹操か!?

つまり、吉田を「敵」ではなく「憧れ」あるいは「目標」としてとらえた、マロリウスにそういう視点を持ちうるキャパシティーがあったこと、吉田もそう見られるに足る存在だったというところに美を感じるんでしょうね。

(お酒飲んだ状態で書いたのでおかしいところがあったらすいません)