書き逃げ

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映画『メッセージ』のネタバレ感想プラスアルファ

「家内安全のお札をもらいに行くの、はじめさんも一緒に行かない?」

義理の母からそう誘われたのは、俺がまだ川崎大師に行ったことがないと言ったからだった。

「佑美が一度ぐらいは連れて行ったのかと思ってた」

笑いながらお義母さんはそう言った。確かに、すぐ近くにあるのだから、一度ぐらい行ったっておかしくはない。

お義母さんは毎年、お札を我が家のためにもらいに行ってくれていた。俺は、かつて忙しい部署にいて、土日もちゃんとは休めてなかったが、今は休める部署に異動している。その日曜日も俺は特に用事はなく、休みだったので、一緒に行くことにした。

当日、お義父さんとお義母さんと一緒に昼過ぎの京急大師線に乗り、川崎大師に向かった。5月にしては暑い日だ。護摩焚きをしてもらい、お札をもらって駅に向かう。

帰りの参道で、お義母さんが前から入ってみたかったという寿司屋に入り、ご飯を食べることにした。入ってすぐ、ビールを頼むお義父さん。俺もご相伴にあずかる。

昔から川崎に住む義両親の、昔の川崎大師周辺の話などを聞いたりしながら、寿司をつまむ。お義父さんはガンで内臓を多く取っているのでほとんど食べない。ビールも瓶の残りは俺がほとんど飲み、さらにもう一本追加した。

「昨日、『メッセージ』っていう映画を見たんですけど、身につまされてしまって」

と、俺は話した。

www.message-movie.jp

「え、どんなの?」

お義母さんは聞き返した。

「宇宙人とどうコミュニケーションを取るかっていう、SFなんですけど、割と地味な……主役も言語学者の女性で」

娘を病気で亡くした経験のある女性言語学者が、宇宙人の言葉を解読するよう軍に呼ばれる。声ではコミュニケーション出来ないようなので、文字でやりとりを試みると、どうやら彼らには時制がないらしい。現在も、過去も、未来に区別がない。その作業をしている間にも、彼女は娘との日々を回想し、時にそれが解読のヒントになったりする。

その宇宙人の思考法に、文字の解読をとおして触れるうちに、主人公の意識も変わってくる。言語によって思考法は決定されるため、未来のことも“回想”できるようになっていく。

「それで、実はその亡くなった娘というのが、宇宙人の言葉解読プロジェクトを一緒にやっている科学者との間に出来る、まだ生まれていない子どもだったんです」

「へえー」

その時ですらまだ、俺は気づいてなかったのだからぼんやりしていた。身につまされた自分のことにだけ意識が向いていたのだ。

「最後は、彼女のその能力で、まあハッピーエンドになるんです。でも、主人公はそれから科学者と結婚して、娘が出来るわけですよ。その娘は将来、病気で死ぬってことがわかっているんだけど、それを避けるんじゃなく、その瞬間瞬間を大事にしようと思うっていう」

それは、俺がちょうど『中動態の世界』という本を読んでいるタイミングだったことも関係していると思う。

これこそ、まさに言語によって思考の枠組みが決まっていることの有力な傍証になる本で、なんともタイミングがよかったのだ。ただし、この本はSFではないが。

そしてまた、俺がここしばらくずっと、死んだ人のことを覚えているというのはどういうことか考え続けていたので、よりいっそうこの映画が他人事ではなく、“わがこと”に感じられたのだろう。感じられすぎていた。

お義母さんは、

「ふうーん。それでもそうやって、女性の主人公は生きていくわけだ」

そう言って、お茶を飲んだ。

お義母さんのその口調は冷静であったが、その時になってようやく俺は、この映画のストーリー、しかも俺が抽出して話した要素は、むしろお義母さんにとってのほうが、より身につまされるものであることに気づいた……。

しかし、謝ることでもない気がした。

「そうなんです。未来に良くないことが起きるとわかっていても、だからといって、その過程に喜びがないわけではない……」

少しでも俺に引き寄せるようにと思ってそう話したが、これはお義母さんにもまったく同じことだと気づいた。

「わけではないし、じゃあ結婚をやめるとは主人公はしないんですよ。だから、これから結婚して子どもも作るだろう、っていうところで映画は終わるんです」

少しは“結婚したときに予後がわかっていた俺”の話に修正できただろうか。

 

お寿司代は(お札代もだが)俺が出そうとしたのだが、払われてしまった。店の前でお礼を言った。

3人で駅に向かっている間に、寿司屋ではほとんど黙っていたお義父さんが、

「でもあれだね、こうやってはじめさんと話してると、佑美がいたんだっていうことが感じられて、そういう意味ではいいもんだね」

と言った。

「そうですね。話すとそういう感じがしますね」

俺はそう応えた。

それは俺が思っていたことに近かった。ここにいない第三者のことを誰かと話すとき、いない人も幾分かはここにいる。生きている人もそうだが、亡くなった人だってそうだ。

どんな人とだって、ずっと一緒にいるわけではない。話題にしたり、頭の中で思い出したりしているときの方がたいていは多いのだ。「あいつがあの時さ」と言って思い浮かべている“あいつ”のほうが自分にとってのあいつである。

「ちょうど去年の今日、佑美が入院してたのよね。それではじめさんが花を買ってきて」

お義母さんが言った。

「あ、そうか、そうですね。結婚記念日だから。プリザーブドフラワーっていうの、買っていきました。そうそう」

「そう考えたら、早いわよねえ……」

それから、電車に乗っている間、佑美が亡くなるまでの出来事を時系列で振り返った。それは、折々に俺とお義母さんの間で繰り返されることだった。いつ入院して、どれだけ入っていて、そこでの様子がどうだったか、いつ具合が悪くなっていつから小康を取り戻したか。同じことを繰り返し、2人が主となって看病した最後のふた月あまりを整理し直すのだ。

「お誕生日だけど、どこか行ったりするの?」

駅で別れ際にそう聞かれた。

「いや、特に……。映画でも見るかなあ」

「また見るの?」

映画好きなのね、と笑いながら言うお義母さんとお義父さんに手を振り、改札前で別れた