書き逃げ

映画、音楽、落語など

『ダンケルク』戦争を体験した人の回想の形式

やっと見ましたよ。

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思っていた映画とは違った。雑に言うと、俺が『プライベート・ライアン』とか『ハクソーリッジ』を想像していたということだ。新兵地獄巡り映画だろうと思っていたわけだ。……あ、それはその通りだったな。俺が想像していたのは、もっと残酷エンターテインメントだということだった。そういう感じではなかった。

メチャクチャ怖いところは怖い。ドイツ軍のメッサーシュミット(戦闘機)が「キーン」という音を立てて急降下し、下にいる兵隊たちを掃討しようとするところとかね。あの場にいたら座りションベンは確実な怖さだろうという想像をしないわけにはいかない。無機物が、かなり上空に見えるだけなんだけど、確実にこちらの息の根を止めに来ているというのがメチャクチャ怖いというのは痛感した。もう、ほとんどそれでこの映画は及第点でしょう。

プライベート・ライアン』とか『ハクソーリッジ』と違ったのは、半径5mぐらいの恐怖感を追究していないことだった。もっと神の視点というか、いきなり地獄に放りこまれた新兵の立場に寄り添うような撮り方ではなかったのだ。まあ、そういう撮り方はすでに成果が上がってるしね。ノーランがなぞる必要はない。

防波堤のシーンで「一週間」、接収されるはずの小さい船のシーンで「一日」、スピットファイアの操縦士たちのシーンで「一時間」とクレジット(キャプション?)が出るのを見て、「死ぬまでの時間なのか?」と思っていたのは、先行する戦争映画を想起したからだろう。でも、そういうことではなかった。

それぞれのシーンが持っている時間のボリュームを(本当は当然長さが違うのに)編集で行き来して調整して一緒にするという映画である。俺がこれを見て思いだしたのは、まずはカート・ヴォネガットだった。それから、『キャッチ22』だった。……これ、同じことを言ってるだけなのかもしれんな。

でもまああえて続けると、「強烈な戦場を経験すると、時間を認識する感覚がおかしくなる」ということが共通するなと思ったのだ。死にかけた体験を何度も反芻して、それを現在の自分の体験と平行して体験してしまうのかもしれない。それによって、普段生きているときの通常の感覚が浸食されていくということを、戦後世代の監督がやっているのが面白いなと思ったのだ。ヴォネガットとかの小説は、体験を裏付けにした、特権的な表現かと思っていたから。

だからこの映画は、「体験を裏付けて」いるわけではないのだろう。しかし、同じ「ある瞬間」を何度も視点を変えて見ることになるという演出は、地獄感が強くてよかった。特に「一週間」パートの兵隊は、イリーガルな手段も使い、ラッキーも手助けして生き延びたのに、逃げ出した同じビーチに戻ってしまうあたりが堂々巡りの絶望感を強調していてとてもよかった。

うっすら不満なのは、IMAXの70ミリフィルムを使ったはずなのに、なんだか冴えない画になっていたという点だ。あんまり日光がない設定での撮影だから、フィルムグレインが出る状況だったということなのかな? 品川のIMAXで見たんだけどなあ。シャープさには欠けていたね。

ただ、それも含めて、CGを多用していなかったのだろうと思われる、「撮れるものしか映ってない」ところは好感が持てた。船に爆弾が当たっても、吹っ飛ばされて体がくるくる回る兵隊とかは映らないのだ。

思い切り雑に『地獄の黙示録』と比べてどちらがいいかといえば『地獄』のほうだ。『プライベート・ライアン』と比較しても『プライベート』のほうかな。でも、『ハクソーリッジ』には勝っている……かな。

少し付け加えると、時間の流れ方が違うのに、「同じ時間」が“映画上では出現する”というのは、『インターステラー』から受け継いだやり口だ。

さらに言うと、『マイマイ新子と千年の魔法』で俺が驚嘆した片渕須直監督のやり口であり、この映画も(まるまる同じではないが)成功していたから、俺は大満足なのである。