書き逃げ

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『竜とそばかすの姫』先走る「問い」と「演出」

ネタバレは気にしないで書きます。一応、他の人のブログや考察記事なんかは一切読まない段階で。

ryu-to-sobakasu-no-hime.jp

 

 細田守監督の作品は、「面白いなー、いいねー」と心から思って終わりまで見られたのは『時をかける少女』のみかも知れない。

サマーウォーズ』では「この主人公の少年は何を(コンピュータを使って)出来るってことになってるのか?」という疑問を雰囲気と勢いでしか乗り切ろうとしないことや「結局お祖母ちゃんの政治力なのかよ」みたいなことで今ひとつ乗れず。以降の作品はもう、乗れないどころではなく「出来が悪い」と思っている。

特に最高にイヤだったのは『バケモノの子』の、今何が起きているのかを登場人物がずっと説明しまくる演出、柳下毅一郎言うところの「副音声映画」状態が耐えがたかった。あれにイライラするせいで、内容がどうだったか、あれを差し引いた出来がどうなのかを考える価値もないとすら思ってしまった。だってどんなに優れたアニメートがなされていたとしても、美麗な背景が描かれていたとしても、演出家が「それでは何も伝わらないと思っている」と白状してしまっているのだから。

おおかみこどもの雨と雪』も、「雨と雪は山に去っていきましたとさ、おしまいおしまい」と民話レベルの解決で終わるなら、最初の方で児童相談所がくるなんて現代性の導入はただ見せかけでしかないなと思ってしらけたし…まあ、過去作の話はこれぐらいにして。

 ここからいろいろ書きますが、全体としては、『サマーウォーズ』よりちょっと下ぐらいの出来という感想だ。そんなに悪い評価じゃないと思う。ここ3作よりは全然いいです。

 

見始めてすぐ気づくのが、「細田作品って、登場人物がやたら恋愛に恐れを感じまくってんな」ということだ。恐怖に触れて、恐怖の側に取り込まれる——ドラキュラなんかがいい例だけど——という図式のごとく、恋愛が今の自分を変えてしまうどえらい何かであるように振る舞うキャラクターが多い。そして、そんな「恐怖にすら近い影響力」平たく言えば「誰でも一目見たら好きになる」人物がよく出てくる。すぐ死ぬ狼男の彼なんか、恐怖と一体化しているわけだしな。

今回はしのぶ君か。主役・すずの幼なじみの彼だ。これはもちろん、『時をかける少女』の真琴に対する功介と千昭が合体したキャラクターである。

ここからもいろいろ考えられそうだけど、ひとまずは「(青春時代における)初めての恋愛の特徴を極端に描いた」ものとして、この特徴はむしろ肯定的に受け止めることだって出来る。…なにか気になるところはあるんだけど。

 

多分、この作品が持っている最大の問題は、「児童虐待」について突き詰めて考えられていないということだろう。

あの兄弟を虐待している親父(だろうね、多分。遺児を引き取った親戚という可能性もあるのかな)がどうしてああするに至ったのかは、想像のきっかけすら与えられない。

もちろん、弟が定型発達ではないことに苛立って…ということは想像できるし、母親(妻)が出て来ないということは離婚して一人で育てることになってしまって、そこでも苛立ちがあるのかも知れないとは思う。けど、それを補強するような、つまりわれわれの持つ「図式的な虐待親子像」に頼らない、あの親子特有の何かは描かれない。あまり興味がないのだろうと思う。

後述するけど、あの親子がどうなれば「ハッピーエンド」なのかも、全然わからない。鈴は最高に理想的なハッピーエンドをあの親子に与えられたのだろうか。俺は難しいと思う。翌日すぐに川崎から四国に帰ってきてたからね。よくて、ひとまず児童相談所なり警察なりといった外部の目があの親子に向けられるようになったというレベルの解決だろう。もちろん、これすら俺の、俺の常識による想像で、別に俺にとって新鮮ではない(つまり映画によってもたらされたわけではない)考え方にすぎないのだが、あの虐待親子について持って帰ってこれたのはそれぐらいなのだ。

 

虐待を突き詰めてないことについてもいろいろ書けるだろうなと思う(し、後で触れる)が、今回まず書きたいのは、「演出家が登場人物よりも先に、彼らが考えるべきことの答えを知ってしまっている。そしてそれで満足してしまい、観客にそれを知らせない」ということだ。

俺が見ていて、鈴(ベル)が言うのはおかしいんじゃないかなと思ったセリフは、竜と接触して早速言う、

「あなたは誰?」

だ。

「え、気になって当たり前でしょ」と思うかも知れないが、あの「U」という世界は、匿名でやるのが基本のはずだ。じゃないと、原作版マグマ大使のようなルックスの彼が右腕から放つ「正体バラし光線」がみんなをおののかせる必殺技になるわけがない。

森川智之、津田健次郎、小山茉美、宮野真守が出演へ!細田守最新作「竜とそばかすの姫」 2枚目の写真・画像 | アニメ!アニメ!

ビリケン商会 マグマ大使/ブリキ ゼンマイ 手塚治虫 – トイウィキ

(なんか色々な部分でディズニー〜古い手塚治虫キャラクターっぽい描線が散見されて、これが仮想世界の特徴になってましたね)

もちろん、最初から知り合い同士とか、仲良くなったらその限りではないのだろう。コーラスサークルのおばさま達なんかはお互い知ってますしね。しかし「Uなら人生をやり直せる」とか言ってるんだから、匿名が基本でなければその売り文句は成立しない。

そんな世界で、自分自身(鈴)も匿名でいて、理由がよくわからないけど暴れまくる人物がいたときに、まず相手に投げるべき問いは、

「どうしてそんなことするの?」

のはずだと思うのだ。

からしたら、

「あなたは誰?」

「おめーこそ誰だよ!? よっぽど気になるわ!」

という話である。わざわざコンサート会場に来て暴れてみせるぐらいだから、むちゃくちゃベル(=鈴)のことを意識してたはずだしね。

第一、「メキシコのフアン・ミゲル・エルナンデス・ルイスです。トルカに住んでます」と言われて、それが何になるのだろう。

 

最初からこの問いをしてしまうのは、もちろん後々、「現実世界で問題を抱えた人物だから仮想世界で暴れていた」ことがわかってくるストーリーだからだ。そして、それを「動機ではなく“誰か”を突き止めることで解決しようとする」「そのために主人公も自身の正体を仮想世界で明かすことにする」ストーリーだからだ。でも、最初のうち、それは誰にもわかってないはずなのだ。

そういう感じで、本当は知らないはずだし、気になるはずもないことを気にして鈴は動く。第一、厄介なアカウントが暴れてるなら垢バン一発で終わりなんじゃないの?(創設者がそうしたくない、という設定にしてたけど、ジャスティン達を出すための便利設定だと思う)そういう世界で「誰なのか」を気にするのはちょっとズレた問題意識で、動機こそ気になるはずだと思うのだ。

 

一方で、観客が気になることは、「それはこっちで考えまして、でも描かないことにしたほうが映画がスムーズに行くかなって…」という感じで描かれない。もちろん何もかも描けとはいいませんよ、ダルくなるから。でもなあ。

竜の取り巻きのキャラクターは、あれはAIなんでしたっけ? だとして、あれは誰が作ったものなのか? 他の人にはいないのに、なんであんな特別なのがいるんだろうか。

あの竜の「美女と野獣」城も、廃墟にあるとはいいつつ、結構内装に手をかけてるワンオフの建物である。あれ含め、竜の中の人=虐待されてる兄ちゃんが作ったってことなんだろうか。つまりあの兄ちゃんは凄腕ハッカーで、かつ建築にも興味があるという設定なんでしょうか。

(となると…というかそんなことは抜きにしたって「パソコンあるならそれで児童相談所とかに連絡しろや」と思ってしまう。もちろん、被虐待児童はそういう正しい判断が出来なくなってしまうのが大きい問題なんだけど、それを認識した上での描き方には特に見えなかった。)

 

Uの世界に入り、ベルになったとき、現実世界の鈴がどうなってるのかは、本当に謎だった。ラスト近く、(Uの世界で)ベルになったまま(現実世界で)廃校まで走ってきてたから、全然それぞれで動かせるみたいだけど、そんなこと出来るもんかね? 確かあの時、マグマ大使に拘束されてたけど、あのやりとりをしながら現実の体は走っていたわけだ。川縁を走っている動きは仮想世界の体には反映されないというのが、かなり不思議である。

結局、「映さなければ齟齬はないことになる」的なごまかし方になっていると思った。

 

もちろん、細田監督はいろいろと考えたのだろう。それは疑う余地はなく、数多くの工夫や丁寧さが見られる。

だけれど、それは映画を「それらしく、スムーズに進める」ということを考えているのであって、登場人物がこの世界の中で、このシチュエーションだったらどう考え、その結果どういう言葉を発するか、ということに重きを置いてない気がした。

 

そして、細田監督は選ばないだろう、美しくないラストになるが(なにしろ鈴が関わらなくなってしまうから)、俺が見たかったのはこうだ。というか、こうならないとおかしいように俺には思えるラスト。

鈴は川崎に行かない。行く必要がないからだ。ネットの野次馬や、本当に心配する人々が、即座に場所は特定できる。

鈴が歌い終わって間もなく、虐待親子の家の周りに群れる人々が現れ、虐待父は外に出てその相手をせざるを得なくなる。もちろん、その様子もネットで流される。すずが、群衆が虐待父に突き付けたスマホを通して虐待父と話すが、当人はかたくなに自身の「正しさ」「これは教育であり、しつけなのだ」ということを言いつのる。

そこで、鈴の父が割って入る。実はずっとUの世界で鈴がやっていることを近くで見ていたのだ(そのキャラクターが、ちらちらと近くにいたことは、再見するとよくわかる仕掛けアリ)。語り始める鈴の父。

「虐待父も妻を失った(逃げられたにしても)ようだが、私も妻を亡くし、子どもにずっと気持ちが通じない日を送っていた。でも、大きく道を間違えなければ、子どもが自分の思い通りになる必要はないはずだ。あなたは子どもを見ていますか。見ているというのは確かにもどかしい。そうじゃない、そうするなと言ったはずだと怒りたくもなるだろう。でも、子どもは自分と全く同じではないからこそ価値があるのだ——」

みたいなね(笑)。

あの作品中で、本当に「子どもを虐待すること」について、なんらかの説得を(観客に対しても)出来るのは、鈴の父以外にいないのだ。子どもから徹底して疎まれても、淡々と、でもあきらめずに親としての役割を果たし続けた彼だけのはずだ。虐待父のちょうど裏返しの存在なのである。

もちろんこういうラストも細田監督は考えたとは思う。でも、それを避けちゃうんだったら、あの映画をあの人物相関で描く理由がない気がするんだよな…。

 

他に気になったことは、ジャスティンも虐待父も、揃って「悪役をやらせるためだけのキャラクター」ってことだ。ジャスティンだって、「あなたは誰?」と聞かれてしかるべき「異常性」を持っているのだが、問われない。ベルにも(つまり細田監督にも)気にされない。虐待父も同様。人の娘さんの顔を傷つけておいて、どう罰せられたか(あるいはそうせざるを得ない性格の裏に何があったか)すら描かれない。

あと、最初の竜が暴れて中止になったコンサートで、鈴が水に飛び込んで泳ぐ演出。水については、お母さんの件もあるんだし、そんな軽々と飛び込んでいいもんなんかねと思った。仮想世界では、現実世界のこだわりみたいなものからすっかり解き放たれてますよってことなのかな。それほど解放されてる感じは、他の場面ではしなかったけれど。