『ガンダムUC』vs.オールドタイプ
『機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を、つまりテレビ版を最終回までやっと見た。
無知全開で、というのはこの作品にまつわるサブテキスト的なもの(もちろん原作の小説も)をほぼ入れることなく、さらにこの作品自体をちゃんと見直すことなく、最終回を見終わったあとに沸き上がってきたフィーリングのみで感想を書こうと思っている。間違いの指摘などあればぜひ。でも、あんまりディテールについて書くことはないと思う。
トピックは大まかに以下の4つだ。
1.ニュータイプって結局、超能力なんか?
2.フル・フロンタルの便利さと最終回での「なんやったんやあいつは」感。
3.「おっさん接待」以外にいいところがあったのか?
4.『イデオン』的世界観と『ガンダム』的世界観の食い合わせの悪さ。
最後まで見ない内の大まかな感想は、それはもう「こんなええもん見せてもろて……!」ということにつきる。
モビルスーツがビームで溶けたり、打撃でくだけたりするところをこんなに細かく、気持ちよく見させてもらえたら、そりゃあ京極はんも感涙だ。安彦デザインっぽいキャラデザもたまらん。
「これや! ワシが食べたかったんはこれや!」
おっさんたちもコースの初めの頃はそう思ったに違いない。わたくしは、コースの終わりのほうで違う味がしたからと言って、全部台無しだったとは思わない。よかったところはよかったし、それだけでも存在意義がある作品だったと思う。
1.
『機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を見る限り、ニュータイプって「サイコフレームによって能力を拡張される超能力」に見える。これ、オカルト……というかイヤボン(ex.『サルまん』)的なものに見えて仕方ない。
ようは「この能力で何でも出来るやん、あんな人型機に乗らんでもええやん」という気持ちになってしまうということだ。
富野由悠季は多分、ニュータイプがどういうものかについてはぼんやりとした、尻尾を掴まれないような物言いをしていたように記憶している。しかし、こういう概念、というと上等な感じがするが、こういう設定をファーストに導入した理由を改めて想像させられたのだ。
ファーストにとってこの設定が都合が良かった理由の一つは、「主役機を変えなくていい」ということがあると思う。「替えなくて」としたほうがいいかもしれない。「リアルロボット的な世界」で、主人公が乗る機体を変える(替える)のは、「スーパーロボット世界」でよりもあまりよろしくなかろう。「強い敵が出現→より強い機体に」というインフレは「リアル」には感じにくい。
(もちろんこの問題はスーパーロボットにおいても存在している。ザブングル以前は逆に「主役機を変える」という発想がなかったため、主役機はそのままにジェットスクランダーが付いたり、パーンサロイドに合体したりして主役機を強くしていたわけだ。)
(Gファイターの話とかは省きますよ。そもそも横道の話だから。)
何が言いたいかというと、ニュータイプという設定は、「それほど嘘っぽくなく、主役を強くさせる理屈」としてまず導入されたんだろうなと思ったわけです。ついでにララァとの展開も、最終回も盛り上がるしね。だからニュータイプの能力はファーストの作中では「勘がいい」という風にしか描かれなかった。
それぐらいのものだったはずが、間に『Z』とか『逆シャア』とかあったにしても、ここまで万能になってしまうとなあ……と感じざるを得ないわけだ。
別に「ニュータイプという概念」が大活躍するところを見たくてガンダムを見るわけじゃないと俺は思うのだ。あくまで作劇上の方便だと捉えている。でも、人によっては「ニュータイプという概念」こそがガンガムシリーズを特別な作品群にしていると思うのかもしれないなあ、と思わされた。これは結構、深い溝である。
2.
ガンダムである以上、シャアは出て欲しい。それはもう、3.での話と密接に関わるが、シャアみたいな人が出て来ないとガンダムっぽく感じないのは仕方がない。
今までのシリーズでも「誰がシャアの役かな?」みたいな視点で見ていたわけで、そこを「赤い彗星の再来」という設定のフル・フロンタルを堂々と出してきたのは潔いと思った。庵野秀明に『シン・ゴジラ』でエヴァとのかぶりを気にしない勇気を与えたとも言われている(ウソ)。
シャアっぽいセリフを言ってくれるだけで嬉しいし、そもそも池田秀一の声なんだから聞けるだけで嬉ションで座面が湿るレベルだ。
だが、終わってみると「あいつなんやったんやろ?」という気持ちになる。「シャアみたいな人」以外の何でもないわけだから。しかし、本当に「シャアみたいな人」があの時代にいたとして、「ネオ・ジオン」て作るかね?
あれは「そっくりさん」だよね。ということにこの作品でもなっているわけだが、そういうやつがあれだけの組織を作れるものなのだろうか……。小説版にはもちろん色々書かれているのだろうな。ウィキペディアを強い心で見ないままにこの稿を終わる。
3.
ファーストガンダムを幼少期に見ていたおっさんとしてはたまらん映像が一杯出てきて、座面の乾く暇がなかった。もうそれだけですべて許す、というか許すなんて上から目線ではなく、感謝の気持ちに満ちあふれいてる。スタッフの皆さん、本当にいいものを見せてくれてありがとう! こういう映像が見たかったんです。最初のシナンジュとの戦闘シーンとか、思わず本気の声が出た。
これは『Gレコ』や『オルフェンズ』を見ていても感じなかったものなので、「新しいガンダム」ならいいということではない。この作品ならではの感想だ。もちろん『スター・ウォーズ エピソードⅣ』が特別篇になったときにもちらりとも感じなかった。
しかし、お話は正直、「ニュータイプという概念を便利に使って色々解決」というふうにしか見えず、ファーストやZを越える何かは感じられなかった。オールドタイプ(=おっさん)ゆえの感受性の鈍磨であろう。
もっとためになる感想はこちら。
(あらかじめこちらを読んでいたにもかかわらずこの体たらくだ)
4.
これももちろん想像だけで書くわけだが、原作はガンダム的世界とイデオン的世界を橋渡しするような、富野由悠季作品を統合する世界観を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。魂がたくさん集まっていく、みたいな映像も時々挿入されていたしね。
その意気やよしなのだが、うまくいかなかったんじゃないかなあ……。しかしそれは、ガンダムが「リアルロボット路線」の嚆矢であり、イデオンが皆殺し皆殺しアンド皆殺しプラスニューエイジみたいないびつな作品だという知識=先入観が俺にあるせいで、気にしない人は気にならないのかもしれない。
オールドタイプは、ガンダム(=リアルロボット路線)だったら勝敗は機械の性能とパイロットの能力で決まって欲しいなと思ってしまうわけだ。そこを戦術でなんとかするとかね。ネオ・ジオングと戦って勝つ理屈を、あんな何かがピカーッと光って急にパワーがあふれ出すみたいなことではなくやってもらったほうが楽しめるのである。
イデオンなら何を起こしても問題はない。あれはわけの分からん先住異星人の遺構なのだから。しかしガンダムはそうではなく、コロニーレーザーを気合い一発で止めちゃったりせず、発射させないようにするところをサスペンスおよびドラマにして欲しいなとオールドタイプは思ってしまいました。