書き逃げ

映画、音楽、落語など

もう1つ、『君たちはどう生きるか』で、指摘されてないこと

もう1つ、自分は大いに気になったけど、あちこちの考察などで触れられてないなと思った点があった。ストーリーについてのネタバレではないけどれ、ディテールについて触れます。

 

キリコが住んでいる船(のような建造物?)の甲板のことである。ワラワラが天に昇っていくところをキリコと一緒に眺めた、海面をかなり下に見下ろす、大きな船の舳先のようなところ。あそこは、床が木だということを印象づける足音のSEが入っていた。板の上を歩くときの音がしていた。

しかしその後、國村隼の老ペリカンが死んだ後、遺骸を埋めるためその甲板に穴を掘ると、そこは土なのだ。え、土? 海の上にある船の甲板の下が?

これ、今までの宮﨑作品では見られなかったことだと思う。幻想シーン(例えば『ナウシカ』の「ランランララランランラン」のシーンなど)は別として、これまでの作品では構造のあるものはそれらしく描かれてきていた。質量も感じられたし。

もしかしたら古い古い建物だから端っこの方には土が溜まり、枯れ葉が腐葉土になったりして……ということも、がんばったら考えられるけど、そうではなかったと思う。埋めたところが床より盛り上がってはいなかったし。

 

そのあと、同じ甲板に穴を空け、アオサギ男と下の世界に行ったりしたから(だったと思うけど、違ったっけ?)、そもそも異常な空間てことなのかもしれない。

もちろん、あるところを掘れば土があり、あるところを掘れば広い空間が現れ、また別のところを掘るとデカい生き物の体内に繋がっている…みたいなことはあったっていい。異世界だしね。でも、「そういう変な甲板だ」ということを、天丼ギャグなんかを使いつつ見せたりしないと、ただ辻褄が合ってないだけだ。こっちが「考察」して理解しないといけないようなこととは思えないし。

それに、そんなにヘンテコな床なのであれば、いろいろと面白く見せられるはずなのを、まったく活かせてないのはもったいなさ過ぎる。

 

これは駿が異世界を(異世界でも、または異世界だからこそ)「一定のリアリティを以て描く」ということが徹底出来なくなったことを示しているんだと思った。「まあ、異世界だしな」という程度で、その場面で起きている変なこと、面白いこと——それはつまり駿自身が絵コンテに描いていることなわけだが——に敏感に反応できなくなっているのだと思う。

巨匠晩年の作品ということで黒澤明の『夢』を想起してしまうのは、そういう「ここは異世界(夢の世界)だから、辻褄が合ってなくても良しとしますよ(そう見てください)」的な姿勢を感じるからかもしれない。両者ともかつて、ハイレベルな娯楽アクション演出を見せたという共通点があるから余計にね。

『君たちはどう生きるか』について、あんまり指摘されてないこと(ネタバレあり)

公開翌日に見てきた。本当は初日に観にいくつもりだったのだが、仕事が入って行けず。すでに取っていた席は、他の人に渡せたので、それはせめてものラッキーだった。



最後まで観て、まず思ったことは「宮﨑駿は、やはり年相応に衰えている」ということだった。

アクションシーンが淡白だ。後半にある、インコ大王が登っていく階段を主人公の眞人が追っていくシーン。その階段を刀で崩すインコ大王。崩れる階段にしがみつく眞人。

長靴をはいたネコ』や『カリオストロの城』を思い出させるシーンであるが、アクションとしては特に何も起きないのである。インコ大王が崩した階段の瓦礫の下から、眞人はなんとなく現れる。相当高い位置から落ちたはずなのに、どう助かったのかもわからない。

ラピュタ』で、パズーが逃げ込んだ穴に手榴弾が投げ込まれた時、本当はもちろん死んでしまうはずなのだが、それをすかさずドーラがオナラをしたと勘違いされるというギャグを挟むことで、「こんなん絶対死ぬやん」というツッコミ心から気を逸らせる、手練れの技がないのだ。ただ落ちて、でもなんとなく生きているだけ。終盤のシーンだったので、もう気力・体力がなくなってきたのかなという気がしたものだ。

(タイミングが絶妙なんだよなー)

 

君たちはどう生きるか』はアクション映画ではない。しかし、アクションを見せて然るべきシーンでそれが全く不発というのは非常に残念だった。今にも画面上にアクションが炸裂しそうなシーンでそれが出ないのは「不発」という言葉がしっくりきた。

 

さまざまな過去作にも出てきたモチーフが頻出するが、それを持って「駿の濃縮無還元汁!」みたいにいうのは、違うと思う。ただ、駿の手癖で、楽に書けるもの(描けるもの)を出しただけと思えてならなかった。

俺にとって宮﨑駿は、なんといっても世界有数のアクション監督だったから、もし「駿の濃縮無還元汁」というべき映画があるのならば、『カリオストロの城』のカーチェイスシーン、ロボット兵の要塞破壊シーン、そしてなんといっても『もののけ姫』の多くの場面を越えた動きの魅力を見せてくれるものでないといけない。

(特に、『もののけ姫』のシシガミが水の上を歩き出すときの動きとか、すごかった。物理法則を超えた存在ってことが一目で分かったし)

そしてそれは、気力・体力がなければ成立しないものだということを今作は教えてくれた。駿が若返らない以上、もうそんな「汁」は観られないことはよくわかった。

今作を見て「濃厚さ」を感じた人は、米林宏昌監督作も最高に楽しめるんじゃないかと思う。めちゃくちゃジブリっぽいところがありますよ。俺はそういう、「昔観たようなもの」をただ見せられても、「薄さ」しか感じないのだ。

『メアリと魔女の花』の平たさ

まったく魅力を感じないインコたちの造形、そのインコがわらわら動き、塔の中を移動する時の画は、実に『未来少年コナン』を思い起こさせた。しかし、それはテレビシリーズで、恵まれてない条件でやっているから(そして駿も演出家として成熟してなかったから)受け容れられた表現だったと思うのだ。今見せられると、ずいぶん平面的だなと感じざるを得ない。

 

 

今作のストーリーは、他の宮﨑作品同様、行き当たりばったりでよく分からない。ネットではみなさん、いろいろとかみ砕いたり、駿が参考にしたであろう小説などを引き、またジブリや敏夫や吾郎や勲などとの関係も踏まえて様々な解釈を試みている。めちゃくちゃ面白くてたくさん読んでしまった(そのせいで、自分が最初に感じたことを忘れそうになったので書いているわけだ)。

でも、あまり指摘されてないなと思ったのは、異界に入った継母・夏子さんが急に怖くなる(「あなたなんて大っ嫌い」などと唐突に叫ぶ)のは、黄泉比良坂の神話をなぞったからじゃないのかということ。あまりというか、俺はそういう解釈を目にしてないんだけど。

ご存知のとおり、死んでしまった妻・イザナミを黄泉の国に迎えに行った男神イザナギが、いざ妻を現世に引き戻そうとしたら(自分の姿を見ないでくれと頼まれていたのに灯りをつけて見てしまったせいで)妻の怒りを買い、ほうほうの体で現世とあの世(黄泉の国)との境、黄泉比良坂まで逃げ、そこにデカい石を置いて妻が出てこられないようにしてめでたしめでたしとした、という話だ。

もちろん、作中でこのシチュエーションを完全になぞっているわけではない。しかし、あの世に行った女を取り返しに行くとき、その女がスムーズに「では帰りましょう」と言うわけはない、女はなぜか怖くなるのだと、そういう理屈をこの神話から(あるいは類似した他国の神話から)受け取ったはずだと思った。

 

ではこの『君たちはどう生きるか』がまったく面白くないかというと、面白い点もあるわけである(笑)。

俺は『風立ちぬ』を観て、アクション監督ではなく「邦画監督としての宮﨑駿」という評価が出来るのではないかと思った。皆さんギョッとしつつも褒めている初夜のシーン。肺を病んだ嫁の横でタバコをスパスパ吸いながら仕事をする男の姿を、ポリティカリーコレクト以前の「良くなさ」に満ち満ちていながら美しいものとして演出しきった手腕に圧倒された。

ああいうシーンが見られるならば、アクション監督ではない演出家としての宮﨑駿をもっと見たいと思った。手は(原画や動画に手を入れるという意味では)動かさず、純粋に演出家として、いわば高畑勲のように絵コンテを切り、作画監督に指示を与えて映画を作ってもいいんじゃないかと思った。

今作の最高なシーンと言えば、何といっても、家に帰って来た父と、後妻の夏子さんが玄関でさっそくイチャイチャし、それを覗き見している眞人のシーンである。あのじっとりした、昭和初期の邦画っぽさ、たまらないものがある。ついでに言うと、このシーンがあるおかげで「覗き屋のアオサギ」と眞人が実は似たようなメンタリティーの存在だということが示されているわけだ。

そしてシーンではなく設定だが、真のヒロインであるヒミの「母親の美少女化」という、あまりにもエッジの効き過ぎた性癖の提示。エロ漫画レベルのやつをどうどうと子どもも見るだろう映画でご提案してきたわけだ。細田守のケモ趣味や、新海誠の「歳上って言ってたのに実は年下だった女の子」なんてぶっちぎる、パンツを脱ぎすぎた(駿が)ヒロイン像である。

これは絶対、薄い本が乱発されるであろう。

異界に行っても最初はキリコが登場するのは、さすがにパンツを脱ぐ(駿が)までに時間がかかったのだろうと推察する。

 

アクション監督を降りた駿が次に作るべきは、谷崎潤一郎ものなんじゃないだろうか。『春琴抄』が一番いいかなあ。めちゃくちゃエロいものになるんじゃない?

『ドライブ・マイ・カー』なんとあの映画と同じ話!

昔、みうらじゅんが「ジミー・ペイジとのっぽさん、同一人物説」とか書いてたのを読んで育った世代だから、これぐらい書きますよ。

 

映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト

dmc.bitters.co.jp

 

面白い映画だった。ほぼ3時間あって、確かに3時間の長さは感じるけど、退屈は全然しない。

非常に地味と言えば地味な人間同士のやりとり、景色などが映っているだけの映画なのに、不思議なぐらいだ。編集によって生まれるテンポや、登場人物たちが次の瞬間どういう言葉をどういうトーンで発するか、待ち受ける気持ちにさせられるせいかなと思う。

たいていの場面でほとんどの登場人物が、次の瞬間、急にぶち切れだしてもおかしくない気がするし、急に泣き出してもおかしくないような気もする。しかしずっと無言でもおかしくないような基本静かなトーンで、結局最後までそのトーンは維持されるのだけれど(ネタバレ…?)、その中に緊張感がみなぎっているわけだ。見る価値は十分にある映画だと思う。

原作(未読)にこの映画が付け加えた、チェーホフの戯曲を変わった形で舞台化するくだりの評価などは、ここでは書かない(書けない)。面白かったし、よかったと思う。全然「いらねーよ、こんな付け足し」とは感じなかった(読んでなくても、短編が元になっている以上、あのくだりが付け足されているに決まっている)。「ワーニャ伯父さん」すら未読の俺がこの映画を見て思ったのは、「チェーホフの戯曲って、状況に対して感情を乗せるセリフが多いから、いろんなシーンに関係ある風に、そして意味ありげに使えるのかな」ということだった。戯曲と同名の映画『桜の園』もありましたしね(漫画原作だけど)。

 

この映画を見終わって俺が思ったのは、「この映画、『怒りのデスロード』やないか」ということだった。

『ドライブ・マイ・カー』の大づかみなプロットを書くと、このようになる。

自身にとって重要な人物を亡くし、喪失感を抱えた男女が、同じ車に乗り、時間を過ごす。そこで二人の間に発生した「何か」(外的な出来事ではなく、二人の関係に生じた「何か」)により、二人は新しい目的を見いだす。それは、とにかく生きていくこと、そして他者を助けることであった。一度は新天地を目指す二人だが、結局元の場所に戻ってくる。

これ、完全に『デスロード』と同じでしょう。

マックスとフュリオサはデカいトレーラー、ウォーリグに乗り、5人のワイヴズをイモータンジョーの元から逃がすため、ウォーリグに襲い来る敵を倒すため共闘する。その間に、信頼関係(性愛ではなく)を育み、最後はマックスが瀕死のフュリオサに輸血して彼女を活かす。そこでやっとマックスは、人間性を取り戻したことを「名を名乗る」という形で示す。

今作の西島秀俊は、妻を突然亡くし、本来は悲しんだり取り乱したりすべきところを、それを押さえ込んで過ごしてきてしまった男だ。演劇祭の事務局にあてがわれた運転手、三浦透子とは特に話し合ったりしない(これは『デスロード』と同様)。しかし、車に乗ってくる岡田将生とは亡き妻について緊張感のあるやりとりをし、それを聞いた三浦透子も西島の喪失を知り自身の罪についても告白、二人の間に信頼関係が築かれる。最終的に二人が到達した境地は、端的にチェーホフのセリフによって述べられる。

「生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」

「今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね」

西島はこれ以降、仕事である舞台演出をし続けて、しかし以前よりは出演者の人生に介入していく形で、人の救いになるように生きていくのであろう。

 

乗り込んできて西島秀俊とタイマンを張った岡田将生は、『デスロード』で言うならばリクタスとニュークスを併せた存在だと思った。西島を(ある意味で)追い詰めるがとどめを刺すにはいたらず、自身を(これもある意味)犠牲にして、西島が最後に辿り着く場所へ道を譲る。

 

…という具合に、イモータンジョーが不在なことこそ惜しいが、主役の男が経験することに注目すると、この二つの映画が語っていることはほぼ同じなのであった。

(ジョーは事務局のおばちゃんかな。心の読めない穏やかな顔つきで、常に西島に圧をかけてくる。運転手つけろとか芝居をどうするか結論をすぐ出せとか)

 

 

もちろん、こんな形で似ているのは、映画というものが「誰かを失った主人公の心の変遷」を追いがちなものだからだ。つまり、上に書いたのは「『ドライブ・マイ・カー』って、映画らしい映画ですよね?」というのとほぼ同義だ。「行って帰ってくる」という形式も、伝統的な映画のスタイルの一つだし、『デスロード』は非常にそぎ落とされた「映画のコア」のみのような構造の映画だから、似てしまいがちなのだろう。

ただ、『デスロード』が、会話は最小限にとどめ、アクションによって二人の間に「何か」を起こしていたのに、『ドライブ・マイ・カー』では喋りまくらないと、そして劇中劇的にチェーホフの戯曲のセリフまで借りないと、発生した「何か」の輪郭を浮かび上がらせられない点、われわれ現代人の頭でっかちさと、『デスロード』監督であるジョージ・ミラーの半端ない知性を感じざるを得なかった。

レッド・ツェッペリン『コーダ(最終楽章)』人生の終盤に、ラストアルバムを

レッド・ツェッペリン最後のアルバムを、50という年齢の節目に聞くことに。

 

当然のことながら、そんなに高く評価されないアルバムなんだろうなと思う。それはもう、よーくわかる。曲のクオリティはそんなに高くない。

一時代を築いたバンドの最後のアルバム、という一点が評価のポイントだろう。それに異論を唱えられはしない。そして、そういうものであったはずなのに、時を経てツェッペリンはライブ盤をどんどん出していったわけで、「ラストアルバム」と言えないものになってしまった。不遇なアルバムと言えるだろう。

  

だけど、俺は今、これを聞きながら泣きそうになっている。全く大げさではない。このアルバムそのものが体現している意味、そして俺が独自にこのアルバムに持たせてしまっている意味も併せて、泣くよそりゃー。

 

まず「俺独自」の方から書こう。俺はちょっと「最終作」にトラウマ…というと大げさだな、思い入れを持ってしまう体験がある。

 

小学校に上がる前から、俺は「ドリトル先生」シリーズが大好きだった。めちゃくちゃに好きで、もともと近所で飼われている犬(特にシェパードの子犬)と仲よくすることは好きだったのだが、そこにもっと意味が乗っかってきた。 

犬は俺を好いてくれている。それは、俺が柵越しに近づくだけで犬が興奮して走り回り、走り回った後に柵の間から突っ込んだ俺の手をペロペロしてくれることからもはっきりしているのだが、その犬と交信出来るかもしれない。それは幼児にとってものすごく魅力的な想像だった。もふもふした、このいたいけな(当時の俺とどっこいなのだが)生き物は、実はちゃんと考えを持っていて、俺が今のところそれを受信出来ないだけであって、本当は俺に何かを語りかけている。それは学べば聞き取れるし、俺も相手の犬に自分の考えを伝えられるのだというそういう世界に、「ドリトル先生」シリーズは俺を連れて行ってくれたわけだ。

確か、最初に読んだのは、姉が持っていた『ドリトル先生航海記』で、それは学研が出していた子ども向け文学全集みたいなものだったから、井伏鱒二訳のものではなかった。

それを読んだ後、岩波少年文庫の『アフリカゆき』から次々読んでいった。幼稚園児の頃からだったが、もし脇目も振らずにこのシリーズだけを読んでいたら、小学2年生になる頃には読み切っていたはずだ。当時、面白かったら同じ本を何度も読む癖があったが(親もそんなに次々新しい本を買ってはくれないし)、それぐらいしかかからなかったはずだ。

だが、小学校の図書室には江戸川乱歩の少年探偵団シリーズという、これはこれでめちゃくちゃ魅力的なシリーズが本棚に並んでいた。俺はこれを1年生の間に全部読んだ。一日一冊読んでたので、すぐ読めた。この辺りから繰り返し読む癖がなくなったんだろうな。子どもながら、このシリーズは繰り返し読むようなもんではないと思ったのかも知れない。 

そういうより道をしつつも、ドリトル先生シリーズもおりおりに読み進めていたわけだ。

少年探偵団シリーズと同様の気持ちで読んでいたら、ふと気づいたのが自分が手にしているのが最終作の『楽しい家』だということだ。確か小3だったんじゃないだろうか。

「あっ、これが最終巻ということは、これを読んじゃうともうドリトル先生の新しいお話しを読めないんだ」

それは悲しい気づきだった。少年探偵団シリーズを読み切った時には感じなかった悲しさがあったのは、少年探偵団は「推理小説」という世界への広がりや、隠微な「大人の世界」を匂わせてくれ、そちらに目を向けさせてくれたからかも知れない。

ドリトル先生シリーズははっきりと子どもの世界であり、それを読みきるということは幼児時代を終わらせるということになるんじゃないのか、という予感を俺は持っていたのだと思う。当時ですら、「ドリトル先生がソーセージを食べているっていうのはどういうことなんだろう」みたいな疑問が生じていたぐらいだから…。

 

直接関係ない話が長くなってしまった。『コーダ』である。

聞いてすぐわかるのは、ボンゾことジョン・ボーナムというどえらいドラマーの記憶を世に残したいという意図だ。収録されたどの曲も、ドラムに耳がいかざるを得ない曲ばかりだ。曲の完成度なんかは関係なく、ドラムが生き生きと鳴っていることが最優先で選ばれている。

前にも書いたことだが、不世出のドラマーであるボンゾによって、ツェッペリンというバンドは他のバンドの存在感と一線を画す存在になった。そして、そのことでキャリアを最も狂わされたのは、リーダーのジミー・ペイジだと思う。ペイジは成功しすぎたんじゃないだろうか。

shigerumizukiisgod.hatenablog.com

バンドのファーストアルバムは「どや、すごいドラマーやろ」という自慢の一曲で始まってるし、いかにこのドラマーを活かすかが2枚目のアルバムまでは課題だったと思う(他のパートがつまらないわけでは全くないけれど)。そして世界的な成功を収める。

そんな同じ体重の金よりも価値のある(と俺は思っている)ドラマーが、酔っ払いすぎて吐瀉物をのどに詰まらせて死ぬ。それをきっかけに、バンドは解散を決定する。

この経緯が示しているのは、「このドラマー以外ではバンドをやっていけない」ということだ。他のバンドだと、ドラムってわりと地味で、交換可能とみなされやすいパートですよ。でも、ツェッペリンではそうではない。そりゃー聞けばわかることだ。

最終アルバム『コーダ』が示しているのは、そんなドラマーへの、彼が生きていたときの生命力溢れるドラム演奏を通しての追悼の意だ。渋く味のある演奏とかではなく、うるさくて手数が多い演奏を選んでいるあたりが、とてもいい。

精神性ではなく、ジョン・ボーナムという人間が、その肉体を使って発していた音を、われわれは惜しんでいるからだ。作曲家ではなく演奏家の死を悼んでいるのだ。

ドラムという楽器は今でも当然ある。なんならボンゾが使っていたのとほぼ同じ音を発するドラムだってリイシューされ続ける。だけど、ボンゾの音、演奏は再現出来ない。なぜだか俺にはわからないけど、あの時生きていたジョン・ボーナムの、あの肉体を使ってしか鳴らせないのだ。もう「新しく」は鳴らされないのだ。

 

これからも、ツェッペリンの発掘音源は出てくるのかもしれない。しばらくリリースはお休みしてるけど。

だけど、2021年7月の時点で俺は、オフィシャル音源はすべて聞いてしまった。もう新しいボンゾの音には会えないのだ。もちろんきっと新しい発掘音源は出されるだろう。だけど、本来のツェッペリンのオリジナルアルバムはついにすべて聞いてしまった。50になったから、聞かないとまずい気がしたのだ。

当たり前だけど後悔はしてないし、聞いて興奮もした。聞かないままでいるほうが後悔するだろうしね。今俺は、すごく切ない気持ちになっている。ボンゾの「最後の音」を聞いてしまったんだなあと。

だけど、最後の最後にこのバンドが「どうだ、俺たちのドラマーすげえだろ」というアルバムを出したことがしみじみと嬉しいし、俺がレッド・ツェッペリンというバンドに最も求めていたものを惜しみなく出してくれたことがありがたい。…何年遅れの感想か、という話だが。

『竜とそばかすの姫』先走る「問い」と「演出」

ネタバレは気にしないで書きます。一応、他の人のブログや考察記事なんかは一切読まない段階で。

ryu-to-sobakasu-no-hime.jp

 

 細田守監督の作品は、「面白いなー、いいねー」と心から思って終わりまで見られたのは『時をかける少女』のみかも知れない。

サマーウォーズ』では「この主人公の少年は何を(コンピュータを使って)出来るってことになってるのか?」という疑問を雰囲気と勢いでしか乗り切ろうとしないことや「結局お祖母ちゃんの政治力なのかよ」みたいなことで今ひとつ乗れず。以降の作品はもう、乗れないどころではなく「出来が悪い」と思っている。

特に最高にイヤだったのは『バケモノの子』の、今何が起きているのかを登場人物がずっと説明しまくる演出、柳下毅一郎言うところの「副音声映画」状態が耐えがたかった。あれにイライラするせいで、内容がどうだったか、あれを差し引いた出来がどうなのかを考える価値もないとすら思ってしまった。だってどんなに優れたアニメートがなされていたとしても、美麗な背景が描かれていたとしても、演出家が「それでは何も伝わらないと思っている」と白状してしまっているのだから。

おおかみこどもの雨と雪』も、「雨と雪は山に去っていきましたとさ、おしまいおしまい」と民話レベルの解決で終わるなら、最初の方で児童相談所がくるなんて現代性の導入はただ見せかけでしかないなと思ってしらけたし…まあ、過去作の話はこれぐらいにして。

 ここからいろいろ書きますが、全体としては、『サマーウォーズ』よりちょっと下ぐらいの出来という感想だ。そんなに悪い評価じゃないと思う。ここ3作よりは全然いいです。

 

見始めてすぐ気づくのが、「細田作品って、登場人物がやたら恋愛に恐れを感じまくってんな」ということだ。恐怖に触れて、恐怖の側に取り込まれる——ドラキュラなんかがいい例だけど——という図式のごとく、恋愛が今の自分を変えてしまうどえらい何かであるように振る舞うキャラクターが多い。そして、そんな「恐怖にすら近い影響力」平たく言えば「誰でも一目見たら好きになる」人物がよく出てくる。すぐ死ぬ狼男の彼なんか、恐怖と一体化しているわけだしな。

今回はしのぶ君か。主役・すずの幼なじみの彼だ。これはもちろん、『時をかける少女』の真琴に対する功介と千昭が合体したキャラクターである。

ここからもいろいろ考えられそうだけど、ひとまずは「(青春時代における)初めての恋愛の特徴を極端に描いた」ものとして、この特徴はむしろ肯定的に受け止めることだって出来る。…なにか気になるところはあるんだけど。

 

多分、この作品が持っている最大の問題は、「児童虐待」について突き詰めて考えられていないということだろう。

あの兄弟を虐待している親父(だろうね、多分。遺児を引き取った親戚という可能性もあるのかな)がどうしてああするに至ったのかは、想像のきっかけすら与えられない。

もちろん、弟が定型発達ではないことに苛立って…ということは想像できるし、母親(妻)が出て来ないということは離婚して一人で育てることになってしまって、そこでも苛立ちがあるのかも知れないとは思う。けど、それを補強するような、つまりわれわれの持つ「図式的な虐待親子像」に頼らない、あの親子特有の何かは描かれない。あまり興味がないのだろうと思う。

後述するけど、あの親子がどうなれば「ハッピーエンド」なのかも、全然わからない。鈴は最高に理想的なハッピーエンドをあの親子に与えられたのだろうか。俺は難しいと思う。翌日すぐに川崎から四国に帰ってきてたからね。よくて、ひとまず児童相談所なり警察なりといった外部の目があの親子に向けられるようになったというレベルの解決だろう。もちろん、これすら俺の、俺の常識による想像で、別に俺にとって新鮮ではない(つまり映画によってもたらされたわけではない)考え方にすぎないのだが、あの虐待親子について持って帰ってこれたのはそれぐらいなのだ。

 

虐待を突き詰めてないことについてもいろいろ書けるだろうなと思う(し、後で触れる)が、今回まず書きたいのは、「演出家が登場人物よりも先に、彼らが考えるべきことの答えを知ってしまっている。そしてそれで満足してしまい、観客にそれを知らせない」ということだ。

俺が見ていて、鈴(ベル)が言うのはおかしいんじゃないかなと思ったセリフは、竜と接触して早速言う、

「あなたは誰?」

だ。

「え、気になって当たり前でしょ」と思うかも知れないが、あの「U」という世界は、匿名でやるのが基本のはずだ。じゃないと、原作版マグマ大使のようなルックスの彼が右腕から放つ「正体バラし光線」がみんなをおののかせる必殺技になるわけがない。

森川智之、津田健次郎、小山茉美、宮野真守が出演へ!細田守最新作「竜とそばかすの姫」 2枚目の写真・画像 | アニメ!アニメ!

ビリケン商会 マグマ大使/ブリキ ゼンマイ 手塚治虫 – トイウィキ

(なんか色々な部分でディズニー〜古い手塚治虫キャラクターっぽい描線が散見されて、これが仮想世界の特徴になってましたね)

もちろん、最初から知り合い同士とか、仲良くなったらその限りではないのだろう。コーラスサークルのおばさま達なんかはお互い知ってますしね。しかし「Uなら人生をやり直せる」とか言ってるんだから、匿名が基本でなければその売り文句は成立しない。

そんな世界で、自分自身(鈴)も匿名でいて、理由がよくわからないけど暴れまくる人物がいたときに、まず相手に投げるべき問いは、

「どうしてそんなことするの?」

のはずだと思うのだ。

からしたら、

「あなたは誰?」

「おめーこそ誰だよ!? よっぽど気になるわ!」

という話である。わざわざコンサート会場に来て暴れてみせるぐらいだから、むちゃくちゃベル(=鈴)のことを意識してたはずだしね。

第一、「メキシコのフアン・ミゲル・エルナンデス・ルイスです。トルカに住んでます」と言われて、それが何になるのだろう。

 

最初からこの問いをしてしまうのは、もちろん後々、「現実世界で問題を抱えた人物だから仮想世界で暴れていた」ことがわかってくるストーリーだからだ。そして、それを「動機ではなく“誰か”を突き止めることで解決しようとする」「そのために主人公も自身の正体を仮想世界で明かすことにする」ストーリーだからだ。でも、最初のうち、それは誰にもわかってないはずなのだ。

そういう感じで、本当は知らないはずだし、気になるはずもないことを気にして鈴は動く。第一、厄介なアカウントが暴れてるなら垢バン一発で終わりなんじゃないの?(創設者がそうしたくない、という設定にしてたけど、ジャスティン達を出すための便利設定だと思う)そういう世界で「誰なのか」を気にするのはちょっとズレた問題意識で、動機こそ気になるはずだと思うのだ。

 

一方で、観客が気になることは、「それはこっちで考えまして、でも描かないことにしたほうが映画がスムーズに行くかなって…」という感じで描かれない。もちろん何もかも描けとはいいませんよ、ダルくなるから。でもなあ。

竜の取り巻きのキャラクターは、あれはAIなんでしたっけ? だとして、あれは誰が作ったものなのか? 他の人にはいないのに、なんであんな特別なのがいるんだろうか。

あの竜の「美女と野獣」城も、廃墟にあるとはいいつつ、結構内装に手をかけてるワンオフの建物である。あれ含め、竜の中の人=虐待されてる兄ちゃんが作ったってことなんだろうか。つまりあの兄ちゃんは凄腕ハッカーで、かつ建築にも興味があるという設定なんでしょうか。

(となると…というかそんなことは抜きにしたって「パソコンあるならそれで児童相談所とかに連絡しろや」と思ってしまう。もちろん、被虐待児童はそういう正しい判断が出来なくなってしまうのが大きい問題なんだけど、それを認識した上での描き方には特に見えなかった。)

 

Uの世界に入り、ベルになったとき、現実世界の鈴がどうなってるのかは、本当に謎だった。ラスト近く、(Uの世界で)ベルになったまま(現実世界で)廃校まで走ってきてたから、全然それぞれで動かせるみたいだけど、そんなこと出来るもんかね? 確かあの時、マグマ大使に拘束されてたけど、あのやりとりをしながら現実の体は走っていたわけだ。川縁を走っている動きは仮想世界の体には反映されないというのが、かなり不思議である。

結局、「映さなければ齟齬はないことになる」的なごまかし方になっていると思った。

 

もちろん、細田監督はいろいろと考えたのだろう。それは疑う余地はなく、数多くの工夫や丁寧さが見られる。

だけれど、それは映画を「それらしく、スムーズに進める」ということを考えているのであって、登場人物がこの世界の中で、このシチュエーションだったらどう考え、その結果どういう言葉を発するか、ということに重きを置いてない気がした。

 

そして、細田監督は選ばないだろう、美しくないラストになるが(なにしろ鈴が関わらなくなってしまうから)、俺が見たかったのはこうだ。というか、こうならないとおかしいように俺には思えるラスト。

鈴は川崎に行かない。行く必要がないからだ。ネットの野次馬や、本当に心配する人々が、即座に場所は特定できる。

鈴が歌い終わって間もなく、虐待親子の家の周りに群れる人々が現れ、虐待父は外に出てその相手をせざるを得なくなる。もちろん、その様子もネットで流される。すずが、群衆が虐待父に突き付けたスマホを通して虐待父と話すが、当人はかたくなに自身の「正しさ」「これは教育であり、しつけなのだ」ということを言いつのる。

そこで、鈴の父が割って入る。実はずっとUの世界で鈴がやっていることを近くで見ていたのだ(そのキャラクターが、ちらちらと近くにいたことは、再見するとよくわかる仕掛けアリ)。語り始める鈴の父。

「虐待父も妻を失った(逃げられたにしても)ようだが、私も妻を亡くし、子どもにずっと気持ちが通じない日を送っていた。でも、大きく道を間違えなければ、子どもが自分の思い通りになる必要はないはずだ。あなたは子どもを見ていますか。見ているというのは確かにもどかしい。そうじゃない、そうするなと言ったはずだと怒りたくもなるだろう。でも、子どもは自分と全く同じではないからこそ価値があるのだ——」

みたいなね(笑)。

あの作品中で、本当に「子どもを虐待すること」について、なんらかの説得を(観客に対しても)出来るのは、鈴の父以外にいないのだ。子どもから徹底して疎まれても、淡々と、でもあきらめずに親としての役割を果たし続けた彼だけのはずだ。虐待父のちょうど裏返しの存在なのである。

もちろんこういうラストも細田監督は考えたとは思う。でも、それを避けちゃうんだったら、あの映画をあの人物相関で描く理由がない気がするんだよな…。

 

他に気になったことは、ジャスティンも虐待父も、揃って「悪役をやらせるためだけのキャラクター」ってことだ。ジャスティンだって、「あなたは誰?」と聞かれてしかるべき「異常性」を持っているのだが、問われない。ベルにも(つまり細田監督にも)気にされない。虐待父も同様。人の娘さんの顔を傷つけておいて、どう罰せられたか(あるいはそうせざるを得ない性格の裏に何があったか)すら描かれない。

あと、最初の竜が暴れて中止になったコンサートで、鈴が水に飛び込んで泳ぐ演出。水については、お母さんの件もあるんだし、そんな軽々と飛び込んでいいもんなんかねと思った。仮想世界では、現実世界のこだわりみたいなものからすっかり解き放たれてますよってことなのかな。それほど解放されてる感じは、他の場面ではしなかったけれど。

『ゴジラvsコング』好き好き大好き

お久しぶりです。

ネタバレ大あり。だけど読んでもストーリーは全然わからないはず。

godzilla-movie.jp

 

馬鹿が書いたか、あるいは馬鹿しか見ないと割り切って書いた、年に一回映画館に行くかどうかという人たちの間で今も名作と名高い『アルマゲドン』マナーの脚本で作られた潔い映画。アクションシーンは大満足で超面白い。

全体にヤンキー漫画…というより不良漫画のテイストが色濃く、
・武器を持てば数倍強くなる
・ケンカしてわかり合う二人(両方怪獣だが)
・倒した相手にもとどめは刺さず、背中で語りつつ去って行くゴジラパイセン
・潤んだ目で見送るコング
と、あまりにもビーバップ以前、本宮ひろ志寄りの熱いセンスが充満しているのだった。

メカゴジラがめちゃくちゃに強く、悪役であるエイペックス社の社長が言っていた「人類が我が社の技術で再び生命の頂点に立つのだ!」みたいな狙いは完璧に達成しており、その勇姿を見られなかった社長はさぞ悔しかっただろうと思った。
どうでもいいとんちきな三人組がコンソールに酒をぶちまけてメカゴジラの暴走を後押し、ついにエヴァでいうところのビーストモードとなり、「人類の技術大勝利!」「ただしメカゴジラ大暴走!」「人類壊滅!」というオチに向かっていく。もともと制御不能になっていたところにコンソールを壊そうとするってどういうことだ? なんて、そんなこまけーことを考えるあなたに向けて脚本は書かれていない。
もちろん人類滅亡で終わってはマズイから、怪獣のお二人の無償のご尽力により、メカゴジラはスクラップと化す。この最後のケンカは当然ピンチに陥ったゴジラをコングが助け、パイセンへの心酔ぶりをきっちり行動で示すわけだ。

あと一つ見どころを挙げるとすれば、小栗旬がピスタチオ(漫才コンビ)のマネを熱演しているところ。

元旦に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』

久しぶりにブログを書きます。ネタバレありますよ。
ちびちびと見ていた『鬼滅の刃』テレビシリーズを、年末の休みにまとめて見られてついに完走したので、その勢いで劇場版も見に行った。見に行ったということはつまり、テレビシリーズが面白かったということです。

kimetsu.com


最近の地上波アニメの作画水準がどれほどなのか把握できてないので、他と較べることは出来ないが、相当高レベルなのは間違いないだろう。かつてよく話題となった「作画崩壊」などは兆しすら見えない(…とまでは言えないかな、鼓屋敷の辺りはややショボいシーンがあったような気も)。
よく動き、特殊効果も美麗、さらに根性と手技の融合で成し遂げられた(らしい)羽織の柄の描写など、丁寧で目の快楽度が高いと思った。
しかし、俺が「次の回も見よう」「すぐ見たい」と思い始めたのは、我妻善逸が(再)登場した11話からである。善逸くん、これは好きになっちゃうキャラクターだよなあああああ、と思わされた。

 

 

そもそも、俺は二重人格キャラクターが好きなのだ。さかのぼると『三ツ目がとおる』の写楽保介。

和登さん|キャラクター|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

 

全く頼りにならない幼児性と揺るぎない強さという、極端から極端に振れる性格は、「本当の彼(彼女)自身」が見えないため、その言動がフリッカーを生じさせて目を引きつける。さらに善逸くんは、通常(おそらく。原作だと違うのかもしれないけど)の性格も女好きの楽天家でありながらテンパって逆ギレやすいという分裂ぶりであり、チカチカ加減がすごい。
そしてそして、声優の好演について触れないわけにはいかない。下野紘という名前、覚えたぞ。原作は読んでないけど、もし読んだらあの声以外、善逸くんがキレている時の声は思い浮かばないだろう。絶妙に声の裏返り方をコントロールした演技、最高だと思った。
というわけで、シリーズ完走後すぐに映画を見に行ったのは、善逸くんが見たい(キレ演技が聞きたい)というのが最大の理由であった。その観点からすると、映画版ではあまり善逸くんは活躍しませんでしたね……。「無意識の善逸くん」のサイコぶりは笑わせてもらいましたが。第2シーズンが待ち遠しいです。

で、映画を見た感想。
みんなが「煉獄さん」「煉獄さん」と輪唱したりハモったりユニゾンしたりしてる理由がよくわかりましたね。そりゃあ煉獄杏寿郎さん、好きになりますよ。テレビシリーズ終盤に登場して、煉獄さん含む柱たちの人間性がヤバいと感じさせておいたのもいい前振りになっている。「他の(弱い)人間を助けるという己の責務」への強い意志が、そのおかげでより強調されて、キャラクターの厚みとして感じられるのがよかった。


炭治郎の質問に対して「知らん!」と即答するやりとりも、彼がある種の単純さを自ら選んだからだろうなと感じさせた。己の成すべきことへのシンプルで絶対的な確信が、彼の強さの裏付けで、それがあればこそ鬼の誘惑に屈しなかったわけだ。
上弦の鬼、猗窩座との戦闘シーン、最高でしたね。あれほど高カロリーでテンション高い戦闘シーンはいろんな映画を思い返してもちょっと見つからないレベル。知らないうちに息を詰めて見ていたと思う。煉獄さんに思い入れしている分、見てて疲れるレベルであった。
それと比べると、タイトルになっている「無限列車」での戦闘が薄味に感じてしまう…というか、どう考えても少人数では対処出来ない物量およびスケールだから、やってることが嘘っぽく感じられてしまうきらいがあった。いや、全然許せるし面白いんだけど、あれはほとんど前座扱いで、いいところはすっかりメインイベントの煉獄さんに持って行かれたな、と。
もう一回見に行こうかな。

 


アニメ版しか見てない、すなわち途中までしか物語を知らない今、『鬼滅の刃』という物語をきっかけに考えたことが2つある。感情移入と、二つの倫理観の関係についてだ。ちょっとこの作品自体からは離れた話になります。

俺は何かの映画、小説について「感情移入できなかった」から嫌い、好きになれない、という考え方はしない。そういう考え方の人は多いけど。その作品の優劣、面白いかどうかに、感情移入は関係ないだろ、と思ってる。明らかに感情移入を誘って(あるいは前提として)作っているのに失敗していたら、それはダメだと思うけど。
最近のアニメや特撮(仮面ライダーとかウルトラマン戦隊シリーズといった意味での)をあまり見ていない俺は、しかし『鬼滅の刃』の善逸くん、煉獄さんにコロリとやられてしまった。とはいえ、「こんな俺を夢中にさせるとは、まったく大したアニメだぜ…。最近のアニメを舐めてたけど『鬼滅の刃』はすごい、別格の作品に違いない」みたいには考えない。他のアニメ見てないのに、そう考えるのは不遜だと思うからでもあるし、好きになるようなポイントを上手く突かれると、そりゃあ好きになっちゃうよおおおおお、と思うからだ。
鬼殺隊の柱や、これから出てくるであろう上限の鬼たちのように、クールだったり優しかったり屈折してたり直情径行だったり美形だったり異形だったりツンデレだったりヤンデレだったり姉キャラだったり妹キャラだったりお母さんキャラだったりお兄さんキャラだったり弟キャラだったり……といった様々な魅力要素、属性って言うんですか? を振り分けられたキャラクターたちが多数出てくると、たいていの人がどれかのキャラクターにハマっちゃう確率は高まるわけだ。
俺は(人気投票で1位らしいから多くの人も)、善逸くんにどハマりした。しかし伊之助にぐっとくる人もいるだろうし、当然ながら炭治郎がたまらない人もいるだろう。
属性のエッジをビンビンに立たせ(ようとし)たキャラクターを多数出すのが最近のアニメ・特撮の傾向としてあるなと感じていて、それはなんでなのかよく分かっていなかったのだが、こうやって「ハマる」確率を高めているんでしょうね。そうすると、たとえ話が面白くなくとも作品に付き合い続ける人が増えるわけだ(『鬼滅』は面白いですよ、念のため)。俺自身が、感情移入を重視してなかったから、気づいてなかったポイントである。

感情移入を誘うために、各キャラクターの過去を回想で描くという手法が多用されている。これが非常に有効なのは、特に煉獄さんに顕著だと思った。
単細胞で、とにかく鬼は絶対殺すべきという考え方以外認めず、美味い弁当を食えば人目憚らず「美味い美味い」と声に出す。そんな一見ペラい(裏表がなさ過ぎる)人間性の裏に、若くして死んだ母親からの教えがあった、なんて泣けてまうやろ。そのペラさを鉄の意志で維持していたなんてなあ…。
という風に俺もしっかりやられちゃってるわけだが、ちょっと暴力的なほど強引に感情移入を誘われてしまった。暴力的っていっても、それは手法であり作者の手腕のなせる技ですから悪い意味ではない(この段階では)。

そうやってわれわれの気持ちをキャラクターに寄り添わせた上で描かれるストーリー、倫理観が、非常に高潔なものである一方、他方でヤバい点があるところが面白いなあと思うわけです。そして、その高潔さとヤバさが互いの効果を高め合っているように思える。煉獄さんぽい話だな、どうも。
家父長制をよしとしている、ように見えるのは、疑いがない。しかし、その価値観の中にいる主人公・炭治郎が、それゆえに強さを獲得しているのも間違いない。そういう古い価値観への「我慢」「献身」によって強さを得るということは現実にもあり、それを乗り越えた人の努力自体は称えられるべきだろう。といって、その価値観に耐えることをよきものとして描くかどうかはまた別の問題である。
戦って死ぬことへの美化も(これは他の全然つまらない作品にもたくさんあることで、『鬼滅の刃』のみに責任を押しつけるべきことではないけれど)、確実にあるヤバい要素だ。煉獄さんの死に様は超最高にエモーショナルであり、俺も涙したわけだが、戦うしかない、そして討ち死にするしかない状況設定をしたのは当然作者であり、それはああいう死に方に「良さ」(格好良さ、感動できる要素)を見いだしたからであろう。いや、格好良かったよ、血がたぎるほどに。でも、そうであればあるほど、本当は美化しちゃいかんことなのだがな…という気になる(例えばあの状況でも桑畑(椿)三十郎ならいかに逃げるか、逃がすかをまず考えただろう)。
まさに、よき倫理観と悪しき倫理観(価値観)が同居して、物語上で互いにその効果を高め合っているものに見えるのだ。
小手先の対策で悪しき価値観を排除した、現代的コンプラ対応万全作品とは違っており、その意味では骨太な作品と言うことも可能だろう。逆に、ディズニーのような現代的な洗練が足りないエンタメということもできるかもしれない。

俺自身は「よきことだけではよきことは描けない」と思うから大問題とは思わないのだが、作品全体の魅力が強すぎて、本当は望ましくない価値観も魅力的に見えちゃうのはまずいのかもな、とは思う。

作品を丸呑みにせず、よく噛んでから呑み込みたいものである(適当)。