書き逃げ

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『君たちはどう生きるか』について、あんまり指摘されてないこと(ネタバレあり)

公開翌日に見てきた。本当は初日に観にいくつもりだったのだが、仕事が入って行けず。すでに取っていた席は、他の人に渡せたので、それはせめてものラッキーだった。



最後まで観て、まず思ったことは「宮﨑駿は、やはり年相応に衰えている」ということだった。

アクションシーンが淡白だ。後半にある、インコ大王が登っていく階段を主人公の眞人が追っていくシーン。その階段を刀で崩すインコ大王。崩れる階段にしがみつく眞人。

長靴をはいたネコ』や『カリオストロの城』を思い出させるシーンであるが、アクションとしては特に何も起きないのである。インコ大王が崩した階段の瓦礫の下から、眞人はなんとなく現れる。相当高い位置から落ちたはずなのに、どう助かったのかもわからない。

ラピュタ』で、パズーが逃げ込んだ穴に手榴弾が投げ込まれた時、本当はもちろん死んでしまうはずなのだが、それをすかさずドーラがオナラをしたと勘違いされるというギャグを挟むことで、「こんなん絶対死ぬやん」というツッコミ心から気を逸らせる、手練れの技がないのだ。ただ落ちて、でもなんとなく生きているだけ。終盤のシーンだったので、もう気力・体力がなくなってきたのかなという気がしたものだ。

(タイミングが絶妙なんだよなー)

 

君たちはどう生きるか』はアクション映画ではない。しかし、アクションを見せて然るべきシーンでそれが全く不発というのは非常に残念だった。今にも画面上にアクションが炸裂しそうなシーンでそれが出ないのは「不発」という言葉がしっくりきた。

 

さまざまな過去作にも出てきたモチーフが頻出するが、それを持って「駿の濃縮無還元汁!」みたいにいうのは、違うと思う。ただ、駿の手癖で、楽に書けるもの(描けるもの)を出しただけと思えてならなかった。

俺にとって宮﨑駿は、なんといっても世界有数のアクション監督だったから、もし「駿の濃縮無還元汁」というべき映画があるのならば、『カリオストロの城』のカーチェイスシーン、ロボット兵の要塞破壊シーン、そしてなんといっても『もののけ姫』の多くの場面を越えた動きの魅力を見せてくれるものでないといけない。

(特に、『もののけ姫』のシシガミが水の上を歩き出すときの動きとか、すごかった。物理法則を超えた存在ってことが一目で分かったし)

そしてそれは、気力・体力がなければ成立しないものだということを今作は教えてくれた。駿が若返らない以上、もうそんな「汁」は観られないことはよくわかった。

今作を見て「濃厚さ」を感じた人は、米林宏昌監督作も最高に楽しめるんじゃないかと思う。めちゃくちゃジブリっぽいところがありますよ。俺はそういう、「昔観たようなもの」をただ見せられても、「薄さ」しか感じないのだ。

『メアリと魔女の花』の平たさ

まったく魅力を感じないインコたちの造形、そのインコがわらわら動き、塔の中を移動する時の画は、実に『未来少年コナン』を思い起こさせた。しかし、それはテレビシリーズで、恵まれてない条件でやっているから(そして駿も演出家として成熟してなかったから)受け容れられた表現だったと思うのだ。今見せられると、ずいぶん平面的だなと感じざるを得ない。

 

 

今作のストーリーは、他の宮﨑作品同様、行き当たりばったりでよく分からない。ネットではみなさん、いろいろとかみ砕いたり、駿が参考にしたであろう小説などを引き、またジブリや敏夫や吾郎や勲などとの関係も踏まえて様々な解釈を試みている。めちゃくちゃ面白くてたくさん読んでしまった(そのせいで、自分が最初に感じたことを忘れそうになったので書いているわけだ)。

でも、あまり指摘されてないなと思ったのは、異界に入った継母・夏子さんが急に怖くなる(「あなたなんて大っ嫌い」などと唐突に叫ぶ)のは、黄泉比良坂の神話をなぞったからじゃないのかということ。あまりというか、俺はそういう解釈を目にしてないんだけど。

ご存知のとおり、死んでしまった妻・イザナミを黄泉の国に迎えに行った男神イザナギが、いざ妻を現世に引き戻そうとしたら(自分の姿を見ないでくれと頼まれていたのに灯りをつけて見てしまったせいで)妻の怒りを買い、ほうほうの体で現世とあの世(黄泉の国)との境、黄泉比良坂まで逃げ、そこにデカい石を置いて妻が出てこられないようにしてめでたしめでたしとした、という話だ。

もちろん、作中でこのシチュエーションを完全になぞっているわけではない。しかし、あの世に行った女を取り返しに行くとき、その女がスムーズに「では帰りましょう」と言うわけはない、女はなぜか怖くなるのだと、そういう理屈をこの神話から(あるいは類似した他国の神話から)受け取ったはずだと思った。

 

ではこの『君たちはどう生きるか』がまったく面白くないかというと、面白い点もあるわけである(笑)。

俺は『風立ちぬ』を観て、アクション監督ではなく「邦画監督としての宮﨑駿」という評価が出来るのではないかと思った。皆さんギョッとしつつも褒めている初夜のシーン。肺を病んだ嫁の横でタバコをスパスパ吸いながら仕事をする男の姿を、ポリティカリーコレクト以前の「良くなさ」に満ち満ちていながら美しいものとして演出しきった手腕に圧倒された。

ああいうシーンが見られるならば、アクション監督ではない演出家としての宮﨑駿をもっと見たいと思った。手は(原画や動画に手を入れるという意味では)動かさず、純粋に演出家として、いわば高畑勲のように絵コンテを切り、作画監督に指示を与えて映画を作ってもいいんじゃないかと思った。

今作の最高なシーンと言えば、何といっても、家に帰って来た父と、後妻の夏子さんが玄関でさっそくイチャイチャし、それを覗き見している眞人のシーンである。あのじっとりした、昭和初期の邦画っぽさ、たまらないものがある。ついでに言うと、このシーンがあるおかげで「覗き屋のアオサギ」と眞人が実は似たようなメンタリティーの存在だということが示されているわけだ。

そしてシーンではなく設定だが、真のヒロインであるヒミの「母親の美少女化」という、あまりにもエッジの効き過ぎた性癖の提示。エロ漫画レベルのやつをどうどうと子どもも見るだろう映画でご提案してきたわけだ。細田守のケモ趣味や、新海誠の「歳上って言ってたのに実は年下だった女の子」なんてぶっちぎる、パンツを脱ぎすぎた(駿が)ヒロイン像である。

これは絶対、薄い本が乱発されるであろう。

異界に行っても最初はキリコが登場するのは、さすがにパンツを脱ぐ(駿が)までに時間がかかったのだろうと推察する。

 

アクション監督を降りた駿が次に作るべきは、谷崎潤一郎ものなんじゃないだろうか。『春琴抄』が一番いいかなあ。めちゃくちゃエロいものになるんじゃない?