書き逃げ

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レッド・ツェッペリン『コーダ(最終楽章)』人生の終盤に、ラストアルバムを

レッド・ツェッペリン最後のアルバムを、50という年齢の節目に聞くことに。

 

当然のことながら、そんなに高く評価されないアルバムなんだろうなと思う。それはもう、よーくわかる。曲のクオリティはそんなに高くない。

一時代を築いたバンドの最後のアルバム、という一点が評価のポイントだろう。それに異論を唱えられはしない。そして、そういうものであったはずなのに、時を経てツェッペリンはライブ盤をどんどん出していったわけで、「ラストアルバム」と言えないものになってしまった。不遇なアルバムと言えるだろう。

  

だけど、俺は今、これを聞きながら泣きそうになっている。全く大げさではない。このアルバムそのものが体現している意味、そして俺が独自にこのアルバムに持たせてしまっている意味も併せて、泣くよそりゃー。

 

まず「俺独自」の方から書こう。俺はちょっと「最終作」にトラウマ…というと大げさだな、思い入れを持ってしまう体験がある。

 

小学校に上がる前から、俺は「ドリトル先生」シリーズが大好きだった。めちゃくちゃに好きで、もともと近所で飼われている犬(特にシェパードの子犬)と仲よくすることは好きだったのだが、そこにもっと意味が乗っかってきた。 

犬は俺を好いてくれている。それは、俺が柵越しに近づくだけで犬が興奮して走り回り、走り回った後に柵の間から突っ込んだ俺の手をペロペロしてくれることからもはっきりしているのだが、その犬と交信出来るかもしれない。それは幼児にとってものすごく魅力的な想像だった。もふもふした、このいたいけな(当時の俺とどっこいなのだが)生き物は、実はちゃんと考えを持っていて、俺が今のところそれを受信出来ないだけであって、本当は俺に何かを語りかけている。それは学べば聞き取れるし、俺も相手の犬に自分の考えを伝えられるのだというそういう世界に、「ドリトル先生」シリーズは俺を連れて行ってくれたわけだ。

確か、最初に読んだのは、姉が持っていた『ドリトル先生航海記』で、それは学研が出していた子ども向け文学全集みたいなものだったから、井伏鱒二訳のものではなかった。

それを読んだ後、岩波少年文庫の『アフリカゆき』から次々読んでいった。幼稚園児の頃からだったが、もし脇目も振らずにこのシリーズだけを読んでいたら、小学2年生になる頃には読み切っていたはずだ。当時、面白かったら同じ本を何度も読む癖があったが(親もそんなに次々新しい本を買ってはくれないし)、それぐらいしかかからなかったはずだ。

だが、小学校の図書室には江戸川乱歩の少年探偵団シリーズという、これはこれでめちゃくちゃ魅力的なシリーズが本棚に並んでいた。俺はこれを1年生の間に全部読んだ。一日一冊読んでたので、すぐ読めた。この辺りから繰り返し読む癖がなくなったんだろうな。子どもながら、このシリーズは繰り返し読むようなもんではないと思ったのかも知れない。 

そういうより道をしつつも、ドリトル先生シリーズもおりおりに読み進めていたわけだ。

少年探偵団シリーズと同様の気持ちで読んでいたら、ふと気づいたのが自分が手にしているのが最終作の『楽しい家』だということだ。確か小3だったんじゃないだろうか。

「あっ、これが最終巻ということは、これを読んじゃうともうドリトル先生の新しいお話しを読めないんだ」

それは悲しい気づきだった。少年探偵団シリーズを読み切った時には感じなかった悲しさがあったのは、少年探偵団は「推理小説」という世界への広がりや、隠微な「大人の世界」を匂わせてくれ、そちらに目を向けさせてくれたからかも知れない。

ドリトル先生シリーズははっきりと子どもの世界であり、それを読みきるということは幼児時代を終わらせるということになるんじゃないのか、という予感を俺は持っていたのだと思う。当時ですら、「ドリトル先生がソーセージを食べているっていうのはどういうことなんだろう」みたいな疑問が生じていたぐらいだから…。

 

直接関係ない話が長くなってしまった。『コーダ』である。

聞いてすぐわかるのは、ボンゾことジョン・ボーナムというどえらいドラマーの記憶を世に残したいという意図だ。収録されたどの曲も、ドラムに耳がいかざるを得ない曲ばかりだ。曲の完成度なんかは関係なく、ドラムが生き生きと鳴っていることが最優先で選ばれている。

前にも書いたことだが、不世出のドラマーであるボンゾによって、ツェッペリンというバンドは他のバンドの存在感と一線を画す存在になった。そして、そのことでキャリアを最も狂わされたのは、リーダーのジミー・ペイジだと思う。ペイジは成功しすぎたんじゃないだろうか。

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バンドのファーストアルバムは「どや、すごいドラマーやろ」という自慢の一曲で始まってるし、いかにこのドラマーを活かすかが2枚目のアルバムまでは課題だったと思う(他のパートがつまらないわけでは全くないけれど)。そして世界的な成功を収める。

そんな同じ体重の金よりも価値のある(と俺は思っている)ドラマーが、酔っ払いすぎて吐瀉物をのどに詰まらせて死ぬ。それをきっかけに、バンドは解散を決定する。

この経緯が示しているのは、「このドラマー以外ではバンドをやっていけない」ということだ。他のバンドだと、ドラムってわりと地味で、交換可能とみなされやすいパートですよ。でも、ツェッペリンではそうではない。そりゃー聞けばわかることだ。

最終アルバム『コーダ』が示しているのは、そんなドラマーへの、彼が生きていたときの生命力溢れるドラム演奏を通しての追悼の意だ。渋く味のある演奏とかではなく、うるさくて手数が多い演奏を選んでいるあたりが、とてもいい。

精神性ではなく、ジョン・ボーナムという人間が、その肉体を使って発していた音を、われわれは惜しんでいるからだ。作曲家ではなく演奏家の死を悼んでいるのだ。

ドラムという楽器は今でも当然ある。なんならボンゾが使っていたのとほぼ同じ音を発するドラムだってリイシューされ続ける。だけど、ボンゾの音、演奏は再現出来ない。なぜだか俺にはわからないけど、あの時生きていたジョン・ボーナムの、あの肉体を使ってしか鳴らせないのだ。もう「新しく」は鳴らされないのだ。

 

これからも、ツェッペリンの発掘音源は出てくるのかもしれない。しばらくリリースはお休みしてるけど。

だけど、2021年7月の時点で俺は、オフィシャル音源はすべて聞いてしまった。もう新しいボンゾの音には会えないのだ。もちろんきっと新しい発掘音源は出されるだろう。だけど、本来のツェッペリンのオリジナルアルバムはついにすべて聞いてしまった。50になったから、聞かないとまずい気がしたのだ。

当たり前だけど後悔はしてないし、聞いて興奮もした。聞かないままでいるほうが後悔するだろうしね。今俺は、すごく切ない気持ちになっている。ボンゾの「最後の音」を聞いてしまったんだなあと。

だけど、最後の最後にこのバンドが「どうだ、俺たちのドラマーすげえだろ」というアルバムを出したことがしみじみと嬉しいし、俺がレッド・ツェッペリンというバンドに最も求めていたものを惜しみなく出してくれたことがありがたい。…何年遅れの感想か、という話だが。