書き逃げ

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『ドライブ・マイ・カー』なんとあの映画と同じ話!

昔、みうらじゅんが「ジミー・ペイジとのっぽさん、同一人物説」とか書いてたのを読んで育った世代だから、これぐらい書きますよ。

 

映画『ドライブ・マイ・カー』公式サイト

dmc.bitters.co.jp

 

面白い映画だった。ほぼ3時間あって、確かに3時間の長さは感じるけど、退屈は全然しない。

非常に地味と言えば地味な人間同士のやりとり、景色などが映っているだけの映画なのに、不思議なぐらいだ。編集によって生まれるテンポや、登場人物たちが次の瞬間どういう言葉をどういうトーンで発するか、待ち受ける気持ちにさせられるせいかなと思う。

たいていの場面でほとんどの登場人物が、次の瞬間、急にぶち切れだしてもおかしくない気がするし、急に泣き出してもおかしくないような気もする。しかしずっと無言でもおかしくないような基本静かなトーンで、結局最後までそのトーンは維持されるのだけれど(ネタバレ…?)、その中に緊張感がみなぎっているわけだ。見る価値は十分にある映画だと思う。

原作(未読)にこの映画が付け加えた、チェーホフの戯曲を変わった形で舞台化するくだりの評価などは、ここでは書かない(書けない)。面白かったし、よかったと思う。全然「いらねーよ、こんな付け足し」とは感じなかった(読んでなくても、短編が元になっている以上、あのくだりが付け足されているに決まっている)。「ワーニャ伯父さん」すら未読の俺がこの映画を見て思ったのは、「チェーホフの戯曲って、状況に対して感情を乗せるセリフが多いから、いろんなシーンに関係ある風に、そして意味ありげに使えるのかな」ということだった。戯曲と同名の映画『桜の園』もありましたしね(漫画原作だけど)。

 

この映画を見終わって俺が思ったのは、「この映画、『怒りのデスロード』やないか」ということだった。

『ドライブ・マイ・カー』の大づかみなプロットを書くと、このようになる。

自身にとって重要な人物を亡くし、喪失感を抱えた男女が、同じ車に乗り、時間を過ごす。そこで二人の間に発生した「何か」(外的な出来事ではなく、二人の関係に生じた「何か」)により、二人は新しい目的を見いだす。それは、とにかく生きていくこと、そして他者を助けることであった。一度は新天地を目指す二人だが、結局元の場所に戻ってくる。

これ、完全に『デスロード』と同じでしょう。

マックスとフュリオサはデカいトレーラー、ウォーリグに乗り、5人のワイヴズをイモータンジョーの元から逃がすため、ウォーリグに襲い来る敵を倒すため共闘する。その間に、信頼関係(性愛ではなく)を育み、最後はマックスが瀕死のフュリオサに輸血して彼女を活かす。そこでやっとマックスは、人間性を取り戻したことを「名を名乗る」という形で示す。

今作の西島秀俊は、妻を突然亡くし、本来は悲しんだり取り乱したりすべきところを、それを押さえ込んで過ごしてきてしまった男だ。演劇祭の事務局にあてがわれた運転手、三浦透子とは特に話し合ったりしない(これは『デスロード』と同様)。しかし、車に乗ってくる岡田将生とは亡き妻について緊張感のあるやりとりをし、それを聞いた三浦透子も西島の喪失を知り自身の罪についても告白、二人の間に信頼関係が築かれる。最終的に二人が到達した境地は、端的にチェーホフのセリフによって述べられる。

「生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」

「今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね」

西島はこれ以降、仕事である舞台演出をし続けて、しかし以前よりは出演者の人生に介入していく形で、人の救いになるように生きていくのであろう。

 

乗り込んできて西島秀俊とタイマンを張った岡田将生は、『デスロード』で言うならばリクタスとニュークスを併せた存在だと思った。西島を(ある意味で)追い詰めるがとどめを刺すにはいたらず、自身を(これもある意味)犠牲にして、西島が最後に辿り着く場所へ道を譲る。

 

…という具合に、イモータンジョーが不在なことこそ惜しいが、主役の男が経験することに注目すると、この二つの映画が語っていることはほぼ同じなのであった。

(ジョーは事務局のおばちゃんかな。心の読めない穏やかな顔つきで、常に西島に圧をかけてくる。運転手つけろとか芝居をどうするか結論をすぐ出せとか)

 

 

もちろん、こんな形で似ているのは、映画というものが「誰かを失った主人公の心の変遷」を追いがちなものだからだ。つまり、上に書いたのは「『ドライブ・マイ・カー』って、映画らしい映画ですよね?」というのとほぼ同義だ。「行って帰ってくる」という形式も、伝統的な映画のスタイルの一つだし、『デスロード』は非常にそぎ落とされた「映画のコア」のみのような構造の映画だから、似てしまいがちなのだろう。

ただ、『デスロード』が、会話は最小限にとどめ、アクションによって二人の間に「何か」を起こしていたのに、『ドライブ・マイ・カー』では喋りまくらないと、そして劇中劇的にチェーホフの戯曲のセリフまで借りないと、発生した「何か」の輪郭を浮かび上がらせられない点、われわれ現代人の頭でっかちさと、『デスロード』監督であるジョージ・ミラーの半端ない知性を感じざるを得なかった。