書き逃げ

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元旦に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』

久しぶりにブログを書きます。ネタバレありますよ。
ちびちびと見ていた『鬼滅の刃』テレビシリーズを、年末の休みにまとめて見られてついに完走したので、その勢いで劇場版も見に行った。見に行ったということはつまり、テレビシリーズが面白かったということです。

kimetsu.com


最近の地上波アニメの作画水準がどれほどなのか把握できてないので、他と較べることは出来ないが、相当高レベルなのは間違いないだろう。かつてよく話題となった「作画崩壊」などは兆しすら見えない(…とまでは言えないかな、鼓屋敷の辺りはややショボいシーンがあったような気も)。
よく動き、特殊効果も美麗、さらに根性と手技の融合で成し遂げられた(らしい)羽織の柄の描写など、丁寧で目の快楽度が高いと思った。
しかし、俺が「次の回も見よう」「すぐ見たい」と思い始めたのは、我妻善逸が(再)登場した11話からである。善逸くん、これは好きになっちゃうキャラクターだよなあああああ、と思わされた。

 

 

そもそも、俺は二重人格キャラクターが好きなのだ。さかのぼると『三ツ目がとおる』の写楽保介。

和登さん|キャラクター|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL

 

全く頼りにならない幼児性と揺るぎない強さという、極端から極端に振れる性格は、「本当の彼(彼女)自身」が見えないため、その言動がフリッカーを生じさせて目を引きつける。さらに善逸くんは、通常(おそらく。原作だと違うのかもしれないけど)の性格も女好きの楽天家でありながらテンパって逆ギレやすいという分裂ぶりであり、チカチカ加減がすごい。
そしてそして、声優の好演について触れないわけにはいかない。下野紘という名前、覚えたぞ。原作は読んでないけど、もし読んだらあの声以外、善逸くんがキレている時の声は思い浮かばないだろう。絶妙に声の裏返り方をコントロールした演技、最高だと思った。
というわけで、シリーズ完走後すぐに映画を見に行ったのは、善逸くんが見たい(キレ演技が聞きたい)というのが最大の理由であった。その観点からすると、映画版ではあまり善逸くんは活躍しませんでしたね……。「無意識の善逸くん」のサイコぶりは笑わせてもらいましたが。第2シーズンが待ち遠しいです。

で、映画を見た感想。
みんなが「煉獄さん」「煉獄さん」と輪唱したりハモったりユニゾンしたりしてる理由がよくわかりましたね。そりゃあ煉獄杏寿郎さん、好きになりますよ。テレビシリーズ終盤に登場して、煉獄さん含む柱たちの人間性がヤバいと感じさせておいたのもいい前振りになっている。「他の(弱い)人間を助けるという己の責務」への強い意志が、そのおかげでより強調されて、キャラクターの厚みとして感じられるのがよかった。


炭治郎の質問に対して「知らん!」と即答するやりとりも、彼がある種の単純さを自ら選んだからだろうなと感じさせた。己の成すべきことへのシンプルで絶対的な確信が、彼の強さの裏付けで、それがあればこそ鬼の誘惑に屈しなかったわけだ。
上弦の鬼、猗窩座との戦闘シーン、最高でしたね。あれほど高カロリーでテンション高い戦闘シーンはいろんな映画を思い返してもちょっと見つからないレベル。知らないうちに息を詰めて見ていたと思う。煉獄さんに思い入れしている分、見てて疲れるレベルであった。
それと比べると、タイトルになっている「無限列車」での戦闘が薄味に感じてしまう…というか、どう考えても少人数では対処出来ない物量およびスケールだから、やってることが嘘っぽく感じられてしまうきらいがあった。いや、全然許せるし面白いんだけど、あれはほとんど前座扱いで、いいところはすっかりメインイベントの煉獄さんに持って行かれたな、と。
もう一回見に行こうかな。

 


アニメ版しか見てない、すなわち途中までしか物語を知らない今、『鬼滅の刃』という物語をきっかけに考えたことが2つある。感情移入と、二つの倫理観の関係についてだ。ちょっとこの作品自体からは離れた話になります。

俺は何かの映画、小説について「感情移入できなかった」から嫌い、好きになれない、という考え方はしない。そういう考え方の人は多いけど。その作品の優劣、面白いかどうかに、感情移入は関係ないだろ、と思ってる。明らかに感情移入を誘って(あるいは前提として)作っているのに失敗していたら、それはダメだと思うけど。
最近のアニメや特撮(仮面ライダーとかウルトラマン戦隊シリーズといった意味での)をあまり見ていない俺は、しかし『鬼滅の刃』の善逸くん、煉獄さんにコロリとやられてしまった。とはいえ、「こんな俺を夢中にさせるとは、まったく大したアニメだぜ…。最近のアニメを舐めてたけど『鬼滅の刃』はすごい、別格の作品に違いない」みたいには考えない。他のアニメ見てないのに、そう考えるのは不遜だと思うからでもあるし、好きになるようなポイントを上手く突かれると、そりゃあ好きになっちゃうよおおおおお、と思うからだ。
鬼殺隊の柱や、これから出てくるであろう上限の鬼たちのように、クールだったり優しかったり屈折してたり直情径行だったり美形だったり異形だったりツンデレだったりヤンデレだったり姉キャラだったり妹キャラだったりお母さんキャラだったりお兄さんキャラだったり弟キャラだったり……といった様々な魅力要素、属性って言うんですか? を振り分けられたキャラクターたちが多数出てくると、たいていの人がどれかのキャラクターにハマっちゃう確率は高まるわけだ。
俺は(人気投票で1位らしいから多くの人も)、善逸くんにどハマりした。しかし伊之助にぐっとくる人もいるだろうし、当然ながら炭治郎がたまらない人もいるだろう。
属性のエッジをビンビンに立たせ(ようとし)たキャラクターを多数出すのが最近のアニメ・特撮の傾向としてあるなと感じていて、それはなんでなのかよく分かっていなかったのだが、こうやって「ハマる」確率を高めているんでしょうね。そうすると、たとえ話が面白くなくとも作品に付き合い続ける人が増えるわけだ(『鬼滅』は面白いですよ、念のため)。俺自身が、感情移入を重視してなかったから、気づいてなかったポイントである。

感情移入を誘うために、各キャラクターの過去を回想で描くという手法が多用されている。これが非常に有効なのは、特に煉獄さんに顕著だと思った。
単細胞で、とにかく鬼は絶対殺すべきという考え方以外認めず、美味い弁当を食えば人目憚らず「美味い美味い」と声に出す。そんな一見ペラい(裏表がなさ過ぎる)人間性の裏に、若くして死んだ母親からの教えがあった、なんて泣けてまうやろ。そのペラさを鉄の意志で維持していたなんてなあ…。
という風に俺もしっかりやられちゃってるわけだが、ちょっと暴力的なほど強引に感情移入を誘われてしまった。暴力的っていっても、それは手法であり作者の手腕のなせる技ですから悪い意味ではない(この段階では)。

そうやってわれわれの気持ちをキャラクターに寄り添わせた上で描かれるストーリー、倫理観が、非常に高潔なものである一方、他方でヤバい点があるところが面白いなあと思うわけです。そして、その高潔さとヤバさが互いの効果を高め合っているように思える。煉獄さんぽい話だな、どうも。
家父長制をよしとしている、ように見えるのは、疑いがない。しかし、その価値観の中にいる主人公・炭治郎が、それゆえに強さを獲得しているのも間違いない。そういう古い価値観への「我慢」「献身」によって強さを得るということは現実にもあり、それを乗り越えた人の努力自体は称えられるべきだろう。といって、その価値観に耐えることをよきものとして描くかどうかはまた別の問題である。
戦って死ぬことへの美化も(これは他の全然つまらない作品にもたくさんあることで、『鬼滅の刃』のみに責任を押しつけるべきことではないけれど)、確実にあるヤバい要素だ。煉獄さんの死に様は超最高にエモーショナルであり、俺も涙したわけだが、戦うしかない、そして討ち死にするしかない状況設定をしたのは当然作者であり、それはああいう死に方に「良さ」(格好良さ、感動できる要素)を見いだしたからであろう。いや、格好良かったよ、血がたぎるほどに。でも、そうであればあるほど、本当は美化しちゃいかんことなのだがな…という気になる(例えばあの状況でも桑畑(椿)三十郎ならいかに逃げるか、逃がすかをまず考えただろう)。
まさに、よき倫理観と悪しき倫理観(価値観)が同居して、物語上で互いにその効果を高め合っているものに見えるのだ。
小手先の対策で悪しき価値観を排除した、現代的コンプラ対応万全作品とは違っており、その意味では骨太な作品と言うことも可能だろう。逆に、ディズニーのような現代的な洗練が足りないエンタメということもできるかもしれない。

俺自身は「よきことだけではよきことは描けない」と思うから大問題とは思わないのだが、作品全体の魅力が強すぎて、本当は望ましくない価値観も魅力的に見えちゃうのはまずいのかもな、とは思う。

作品を丸呑みにせず、よく噛んでから呑み込みたいものである(適当)。