書き逃げ

映画、音楽、落語など

中華鍋というシステムの課題

諸事情あって、晩飯をよく作るようになった。

これまで晩飯は97%ぐらい外食だったのだが、色々な状況から家で食べた方がよくなり、じょじょに料理の世界に足を踏み入れているわけだ。現在、7割ぐらいは自炊である。

例えば、今晩食べたのは、麻婆茄子とふろふき大根の鶏そぼろあんかけ。どちらも葛を使った体の温まる品である。夏やのに……。シャワー後に、汗をかきながら食べた。

このような生活になって2カ月ほどなのだが、そんな短期間にも、料理に対する心境の変化というものがある。最初はおっかなびっくり、「えっ、こんなに硬くて熱いの……?」(中華鍋の柄を握りながら)というおぼこい態度だったわけだが、とか書いたけどそれは盛っていて、本当に本当の最初は、火すら使わなかった。冷や奴に〈辛そうで辛くない少し辛いラー油〉、そしてスモーク鴨肉、みたいな組み合わせでビールをごくごくしていた。

それからまず作るようになったのは、ナムルである。「え? なんでナムル?」と思われるかもしれないが、もやし或いは小松菜やニラなどを茹でて味覇とごま油であえればいいだけなのでメチャクチャ簡単であり、かつ野菜がもりもり食べられて肉も要らないぐらいの満足度(俺調べ)なので最強おかずなのである。

その次にトライしたのはしめ鯖。「え? なんで(略)が、これも実は簡単に作れることを俺はブログによる知識で知っていた。そして、確かに容易に作れて非常に美味であることが分かり、一日おきに作っては半身をスライスし(もう半身は翌日食べる)、もりもりと食べていた。

が、そればかりではさすがに飽きる。適当な炒め物などを作り始めたのだが、そこですぐに思ったのは、テフロンのフライパンというものが何ともつまらん感じがするということだ。水っぽい野菜炒めしか出来ないし、パラリとした炒飯を作ることなど夢のまた夢だ。軟弱な、小市民的道具だと思えて仕方がなくなったのだ。

この時点で、俺がテフロンのフライパンを使い始めて約2日。それだけの時間があれば俺という人間が料理についてなにがしかの真理をつかむのは容易だったわけだ。すぐさま俺は他の方のブログで知った鉄製中華鍋をクリックにより入手した。

中華鍋の空焼きの面倒さなどはひとまず省略するが、それから俺は、日々炒め物を作り続けている。

まずヤカン一杯にお湯を沸かし、前の日に鍋肌に塗り込めた油をお湯で流し、たわしでこすり落とす。すぐさまガスを着火して鍋から煙が上がるまで温め、そこにお玉一杯ほどのサラダ油を投入、鍋を回して鍋肌に馴染ませる。その油はオイルポット(もちろんこれもクリック一発で購入済み)に戻し、改めて新しい油を鍋に注ぎ、そこから火と鉄による芸術であるところの炒め物に挑むわけである。

その結果、俺の料理の腕はめきめき上達している。と言っても、クックパッドやなにやかにやのレシピを参照し、大いに参考にしているわけであり、また正直言って野菜炒めはべしゃべしゃである。しかし、クックドゥなどの助けを借りずに確かにこれは麻婆茄子だと思える味で自ら作り出せるのは快感であり、細かく刻んだピーマンを入れるというアレンジがずばりハマったりするととても嬉しいものだ。

問題は一つ。太るね……。まだパンツがはけなくなったりシルエットクイズで「彦摩呂!」と解答されたりするレベルにはなってないが、どうしても多めに作ってしまうことや、油を多めに使わないといけない中華鍋のシステム運用上、太る。ポケモンGoを頑張らないとね。今日レベル23になりました。

『シン・ゴジラ』はカチンコチンになった。

シン・ゴジラ』、大変に面白うございました。80点の映画です。2回IMAXで見ました。映画でこんなに満足することなんてのはなかなかないわけで、スタッフの皆様方に対しては本当にありがとうございましたという気持ちです。今年見た日本映画は面白いのが多かった。『ヒメアノ〜ル』なんかも、これから何かと思い出す映画になるだろうと思う。

 

以下、『シン・ゴジラ』について気になってしょうがなかった点について書きます。その点についてだけ書くので、全然満足してないやん面白がってないやん、と見えるかもしれない。いいところについては、僕の目に入った範囲では皆さんちゃんと指摘されている気がしたので、そこははしょっているためです。

もしかするとすでに同じ点を批判・批評している方がいらっしゃったら申し訳ない。見てないまま書きます。

 

気になったのはヤシオリ作戦である。この作戦が成功するかどうかのポイントは、それまでの展開を見る限り、二つあると思われた。

1.ゴジラの口に十分に凝固剤を注入することができるか。

2.凝固剤が効くか。

 

まず1.を実現させるための方策、ありゃなんだ。

停止する前のゴジラ巨神兵と使徒とイデオンガンバスター経由)譲りのビームを四方八方に放射していたはずでしょう。どうやって「無人在来線爆弾」をその足下まで走らせますのん? あれでも線路は無事なん?

と思っていたのだが、2回目見たら長谷川博己國村隼と打ち合わせをしているときに線路は復旧(確保?)したというような話をしていたことに気づいた。

しかしなあ、ビームは空に向けて放射したから地上は無事ってことでしょうか。でも、ビームですぱすぱ斬ったビルが地上に落下してたし、小規模な被害ってことはないと思うんだが……。ゴジラ近くにたどり着けるよう線路や道路のがれきを撤去するだけでも15日以上かかるような気がするし、土台から作り直さないと線路も引けないだろ。それまで見させられたゴジラの無双っぷりからすると、大層違和感があった。

 

そのことに制作者も気づいてなかったわけではないのだろう、無人在来線爆弾が疾走して向かう先に、併走するカメラが映すのはゴジラの足ではなく、がれきなのである。

なので本当ならば(っていうのはヤボですが)、そのがれきに無人在来線爆弾が突っ込んで、“ゴジラの近く”で爆発して終わるはずのところ、この映画においては、鉄道が宙に舞い、ゴジラにまとわりつくようなかっこうで爆発する。

ここで「ああ、『虚構』が都合良く使われてるなあ」という気持ちに、僕はなってしまった。

(もちろん、映画全体の構成自体、徐々に虚構の度合いが高くなっていき、気にならないように工夫しているのだとは思う。鉄道が繋がったまま飛ぶシーンは第二形態の時にもあるし、中盤で登場する石原さとみの話し方とか巨災対のメンバーのアニメ(ラノベ)キャラっぽさとかで、観客のリアリティラインについてのハードルを下げていっているのだろう。だろうとは一応思った。)

 

それ以降のシーンは都合の良さが累積していく。ゴジラが暴れてがれきが落ち、道路が通れなくなった時に、先頭のパワーショベル(?)みたいな車がいるだけで大丈夫なものなのか。時間との勝負だろ? ゴジラ周辺のビルは、そもそも停止する前にゴジラビームで倒されてたはずだろ、なのにビルを倒壊させてゴジラを押さえつけるってどういうことなんだ。

 

 

そして2.なのだが、これはもう少し分けないといけない。というか巨災対のメンバーの議論を聞いている途中から疑問に思い、ゴジラの下あごがぱっくり割れてビームを吐き出したときには気になって仕方なくなったことなのだが、あれ本当に「口」なのか?

つまり、ポイントを分けると、

2−1. 凝固剤をゴジラは「飲む」のか。

2−2. 凝固剤が効くか。

ということになる。

「凝固剤を経口投与!」と言ってるけど、みんなが口と思ってる部位は「口に見えるビーム発射器官」か何かなんじゃないのか? 個体で進化していく完全生物と推測しているんだから、昔はあそこで放射性廃棄物を取り込んだとしても、今はどうなんだろうか……と思わないのだろうか。

もちろん、結果としてゴジラが凝固剤を口からむかえに行ってごくごく飲んでも構わないし、それ効いてギンギンのカチンコチンになってくれて全然構わない。「飲むなんておかしいし、効くわけない」と言っているのではない。巨災対のメンバーがしていた議論の方向性からすると、心配すべき要素として相当大きいはずなのに、意識すらされないのが、巨災対という組織がちゃんと問題に対峙してないように見えるのだ(道路や線路は自衛隊が死ぬ気で何とかしたし、在来線も浮かせる技術があったのだと目をつぶるとして)。ただ、自分らが初期に思いついた案にしがみついている組織のように見えてしまっている、ということです。

検討した上で、「それでもこの作戦しか我々には残されていない!」と言って作戦に入ってもいい、というかそうでも言わないとずいぶん楽観的なグループですねという感じがすると思うのだが、そういう類いのセリフを制作者が避けたい気持ちもまたよくわかる。

 

 

果たして、ヤシオリ作戦はとんとん拍子にうまく進んでいくのだが、映像を見る限りでは、ポンプ車から凝固剤が噴射されるシーンはなく、ゴジラがそれを嚥下している様子もない。

これ、僕は大層気になったのだけれど、皆さんいかがですか? 口に突っ込んだだけで、後は「何パーセント」ってメーターだけ出るの、変な気しない?

その理由を僕は、

 

噴射するシーンを入れる

→倒れているゴジラの口の中に凝固剤が入ってからどうなる? 口はきちんと閉まってないから垂れてしまうが……

→また、垂れるにしてもゴジラがごくごく飲んでる様子を見せないとおかしくなる

→じゃあそもそも噴射するシーンを外そう

 

と、かような判断をしたのではないかと思うのですがどうでしょう。そのせいで、「本当は効かない方法を、効いているように映像で誤魔化している」というふうに見えてしょうがなかった。映画という虚構の、都合のいいところを使われたなあ、とまたしても感じてしまったのだ。

 

原発を想起させるゴジラに冷却作戦を想起させるコンクリートポンプ車が対策として投入され、特攻精神で結果を出す……なんていうことも含めて「現実対虚構」とするなら、それも「『虚構』はずいぶん楽だな」という気がしなくはないが、そういうのは今回は論点にしないです。)

 

まとめると……どういうことになるんだろうね。もう少しだけ、虚構を「話運びを楽にさせるため」に使わないで欲しかったということかな? テーマとか、なにかしら「言いたいこと」を語る上で、虚構をうまく使うのはいいんだけれど。