『シン・ゴジラ』はカチンコチンになった。
『シン・ゴジラ』、大変に面白うございました。80点の映画です。2回IMAXで見ました。映画でこんなに満足することなんてのはなかなかないわけで、スタッフの皆様方に対しては本当にありがとうございましたという気持ちです。今年見た日本映画は面白いのが多かった。『ヒメアノ〜ル』なんかも、これから何かと思い出す映画になるだろうと思う。
以下、『シン・ゴジラ』について気になってしょうがなかった点について書きます。その点についてだけ書くので、全然満足してないやん面白がってないやん、と見えるかもしれない。いいところについては、僕の目に入った範囲では皆さんちゃんと指摘されている気がしたので、そこははしょっているためです。
もしかするとすでに同じ点を批判・批評している方がいらっしゃったら申し訳ない。見てないまま書きます。
気になったのはヤシオリ作戦である。この作戦が成功するかどうかのポイントは、それまでの展開を見る限り、二つあると思われた。
1.ゴジラの口に十分に凝固剤を注入することができるか。
2.凝固剤が効くか。
まず1.を実現させるための方策、ありゃなんだ。
停止する前のゴジラは巨神兵と使徒とイデオン(ガンバスター経由)譲りのビームを四方八方に放射していたはずでしょう。どうやって「無人在来線爆弾」をその足下まで走らせますのん? あれでも線路は無事なん?
と思っていたのだが、2回目見たら長谷川博己が國村隼と打ち合わせをしているときに線路は復旧(確保?)したというような話をしていたことに気づいた。
しかしなあ、ビームは空に向けて放射したから地上は無事ってことでしょうか。でも、ビームですぱすぱ斬ったビルが地上に落下してたし、小規模な被害ってことはないと思うんだが……。ゴジラ近くにたどり着けるよう線路や道路のがれきを撤去するだけでも15日以上かかるような気がするし、土台から作り直さないと線路も引けないだろ。それまで見させられたゴジラの無双っぷりからすると、大層違和感があった。
そのことに制作者も気づいてなかったわけではないのだろう、無人在来線爆弾が疾走して向かう先に、併走するカメラが映すのはゴジラの足ではなく、がれきなのである。
なので本当ならば(っていうのはヤボですが)、そのがれきに無人在来線爆弾が突っ込んで、“ゴジラの近く”で爆発して終わるはずのところ、この映画においては、鉄道が宙に舞い、ゴジラにまとわりつくようなかっこうで爆発する。
ここで「ああ、『虚構』が都合良く使われてるなあ」という気持ちに、僕はなってしまった。
(もちろん、映画全体の構成自体、徐々に虚構の度合いが高くなっていき、気にならないように工夫しているのだとは思う。鉄道が繋がったまま飛ぶシーンは第二形態の時にもあるし、中盤で登場する石原さとみの話し方とか巨災対のメンバーのアニメ(ラノベ)キャラっぽさとかで、観客のリアリティラインについてのハードルを下げていっているのだろう。だろうとは一応思った。)
それ以降のシーンは都合の良さが累積していく。ゴジラが暴れてがれきが落ち、道路が通れなくなった時に、先頭のパワーショベル(?)みたいな車がいるだけで大丈夫なものなのか。時間との勝負だろ? ゴジラ周辺のビルは、そもそも停止する前にゴジラビームで倒されてたはずだろ、なのにビルを倒壊させてゴジラを押さえつけるってどういうことなんだ。
そして2.なのだが、これはもう少し分けないといけない。というか巨災対のメンバーの議論を聞いている途中から疑問に思い、ゴジラの下あごがぱっくり割れてビームを吐き出したときには気になって仕方なくなったことなのだが、あれ本当に「口」なのか?
つまり、ポイントを分けると、
2−1. 凝固剤をゴジラは「飲む」のか。
2−2. 凝固剤が効くか。
ということになる。
「凝固剤を経口投与!」と言ってるけど、みんなが口と思ってる部位は「口に見えるビーム発射器官」か何かなんじゃないのか? 個体で進化していく完全生物と推測しているんだから、昔はあそこで放射性廃棄物を取り込んだとしても、今はどうなんだろうか……と思わないのだろうか。
もちろん、結果としてゴジラが凝固剤を口からむかえに行ってごくごく飲んでも構わないし、それ効いてギンギンのカチンコチンになってくれて全然構わない。「飲むなんておかしいし、効くわけない」と言っているのではない。巨災対のメンバーがしていた議論の方向性からすると、心配すべき要素として相当大きいはずなのに、意識すらされないのが、巨災対という組織がちゃんと問題に対峙してないように見えるのだ(道路や線路は自衛隊が死ぬ気で何とかしたし、在来線も浮かせる技術があったのだと目をつぶるとして)。ただ、自分らが初期に思いついた案にしがみついている組織のように見えてしまっている、ということです。
検討した上で、「それでもこの作戦しか我々には残されていない!」と言って作戦に入ってもいい、というかそうでも言わないとずいぶん楽観的なグループですねという感じがすると思うのだが、そういう類いのセリフを制作者が避けたい気持ちもまたよくわかる。
果たして、ヤシオリ作戦はとんとん拍子にうまく進んでいくのだが、映像を見る限りでは、ポンプ車から凝固剤が噴射されるシーンはなく、ゴジラがそれを嚥下している様子もない。
これ、僕は大層気になったのだけれど、皆さんいかがですか? 口に突っ込んだだけで、後は「何パーセント」ってメーターだけ出るの、変な気しない?
その理由を僕は、
噴射するシーンを入れる
→倒れているゴジラの口の中に凝固剤が入ってからどうなる? 口はきちんと閉まってないから垂れてしまうが……
→また、垂れるにしてもゴジラがごくごく飲んでる様子を見せないとおかしくなる
→じゃあそもそも噴射するシーンを外そう
と、かような判断をしたのではないかと思うのですがどうでしょう。そのせいで、「本当は効かない方法を、効いているように映像で誤魔化している」というふうに見えてしょうがなかった。映画という虚構の、都合のいいところを使われたなあ、とまたしても感じてしまったのだ。
(原発を想起させるゴジラに冷却作戦を想起させるコンクリートポンプ車が対策として投入され、特攻精神で結果を出す……なんていうことも含めて「現実対虚構」とするなら、それも「『虚構』はずいぶん楽だな」という気がしなくはないが、そういうのは今回は論点にしないです。)
まとめると……どういうことになるんだろうね。もう少しだけ、虚構を「話運びを楽にさせるため」に使わないで欲しかったということかな? テーマとか、なにかしら「言いたいこと」を語る上で、虚構をうまく使うのはいいんだけれど。