『ターミネーター』30年目の真実
もちろんタイトルはウソ、大げさ、紛らわしいタイプのものです。
立川の極音上映で見てきた。もしかすると、というかかなり高い確率で、スクリーンで見たのは初めてだ。日曜洋画劇場で見たり、それ以降はレンタルで見たり、午後ロー落ちした時に見たりしたのだろう。
映像、音響ともに良好で、非常に楽しめた。そして、何度も見ていたにもかかわらず、今回初めて気づいたことがあった。
もともと、『2』とは違って、ホラー演出を基調とした映画だとは思っていた。それは間違っていなかった。
一人で出かけようとして、だだっ広い駐車場に一人赴くサラ・コナー。引いたカメラが全身を捉え、周りに誰もいないことを強調するとともに不安な音楽が被さり、あたりをキョロキョロとうかがうサラの顔のアップになる。何事も起きず、スクーターで出かける彼女の後を、少し遅れて血走った目の男が車で静かに追い始める……。
そんな感じで、ジャンル映画らしい演出を丁寧に積み重ねていく。SFの皮を被ったホラーなのである。
今回見て、全く見落としていた、あるいは記憶から完全に抜け落ちていたのは、以下のくだりで映っていたもの、またやりとりの意味である。
シュワ演じるところのT-800が、どこかの部屋に入り込んで己の傷を修復するシーンがある。修復といっていいのか、怪我の部分を切り取って捨てるというべきか、指先が動きにくくなったのを、腕の肉を切り開いて中のケーブルを直し、眼球を取り去ってレンズを露出させる。
その部屋から銃を持って出ようとする前、廊下に来た掃除夫らしい男に、「何か腐ってるのか? とんでもない匂いだ」みたいなことを言われる。T-800は「Fuck you, asshole」という返事をロールプレイングゲームのコマンドよろしく選んで答える……というところは覚えていた。ロボコップでも似たようなことをしていた、固いギャグシーンである。
俺はその“答え”は覚えていたが、掃除夫がかけた言葉はすっかり忘れていた。そして、答える前のT-800の顔、もろにダミーヘッドなのだが、そこにハエがとまっているということは完全に見落としていた。
この映画におけるダミーヘッドの出来はあまりよくなく、高校時代に友だちと、目玉をくりぬいたシュワの(ダミーヘッドの)顔色があまりに青白くなっているので、
「そんなに痛いならやらんとけばええのにな!」
なんつってゲラゲラ笑ったりしていたのだ。しかしこの顔色、ちゃんと演出されていたものだった。
記憶が混同されていたのだけれど、このダミーヘッドが出てくるのは自分で目玉をくり抜くシーンより後のシーンである。くり抜いているシーンではさほど顔色は青白くなかったのだが、映画内で時間が経つと、T-800の顔色はどんどん青白くなっていくのである。ハエがたかっているのはつまり、T-800の皮膚が腐っていっていることを描写していたのだ。
そして、そこから自ずと気づかされるのはT-800がゾンビのバリエーションであったということだ。ダメージは与えられるが、殺そうとしてもなかなか死なない。体が損傷してグロくなり、嫌な見た目になる。感染しないけどね。あと、集団でもないけどね。
エンドスケルトンになっても足を引きずりつつ追いかけて来、下半身が千切れてからも上半身だけで這ってくる姿は、ゾンビのイヤさ怖さとほとんど一緒である。
そのことに全然気づかなかった……あるいはすっかり忘れてしまっていたのは、驚異の娯楽大作『2』が違うジャンルの映画に変貌していたからかも知れない。
「天才『パート2』監督」(2作目をメチャクチャ面白く撮ってしまう)で、しかもそれを別ジャンルにしてしまう癖があるジェームズ・キャメロンについては、またなにか気づいたことがあったら書くかも。
『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』の極薄感想
ネタバレなしです。
大変楽しい映画でした。
とにかく展開が早い。トムがどういう人間なのか(なかなかの小悪人だし、軍人にしては弱さが強調されている)は最低限わかるように出来ているのはいいとして、「これどうなっとるねん」という疑問はスピードにまかせてぶっちぎり、飛行機墜落直後にピンピンしてるのも、ろくに説明しないまま駆けだして、あとから「ははあ」とわかってくるというやり口である。
意外だったのは、「呪われた」を意外ときちんとやっているところ。「どうせちょっと怖いだけでアクション映画なんだろ」と思って見に行ったけど、予想よりはずっとちゃんと呪われていた。しかもトムが。
この映画でやっているタイプの「呪われた状態」は長い間映画で見ていなかった気がする。もちろん、呪い自体は『リング』とか『呪怨』とかでたっぷり見ている。しかしこれは、かなり昔のドラキュラ映画で見たようなタイプの呪いだ。ネタバレしないとなるとこういう言い方にとどまってしまうが、懐かしい。俺、子どものとき、こういう呪いを怖いと思って日曜洋画劇場のドラキュラ(の何か)を見ていたなあ。恐怖に魅惑される怖さと言いますか。
と、書くと凄く怖いみたいだけど、ほとんど怖くはない。粉っぽいゾンビが少し新鮮な程度のよくあるアクションホラーである。トムがそういうのに出ているのが特別感があるとはいえ、この感想に負けないぐらい薄味な一本と言えよう。
じゃあなんで楽しいのか? この映画の評価を(俺にとって)2割増ししている点が2つある。1つは、何と言ってもソフィア・ブテラ。『キングスメン』に出てた、義足の殺し屋の彼女である。
出てくれるだけで嬉しくなる。
もう一つは、これから始まる「ダーク・ユニバース」を感じさせる、ラッセル・クロウの役。ハ○○か! って、みんな言うと思うよ。予告では何も言われてないから(一応は)伏せるけれど、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』を思い出した(見てない&読んでないで言う)。クロウは、『ナイスガイズ!』も良かったし、復調している感がありますね。
『メアリと魔女の花』の平たさ
多分面白くないのだろうと思いながら見たら、予想以上に面白くなかった。
米林監督にたいして悪感情は持っていない。
…と言うのは、人情論だ。希代のエキセントリック老年である駿の下で辛い思いをしてきたアニメーターに幸せになって欲しいというような気持ちである。作る作品が面白いと思ったことは残念ながらない。アニメーターとしての腕は、申し訳ないがよく知らない。庵野秀明とか金田伊功とか友永和秀みたいなキレキレの作画をしているという印象がなく、噂も聞かないのでわからないのだ。
とはいえ、この映画を見ていて、時々俺は笑った。それは、「うわあ、ジブリっぽい(笑)」と感じたときだ。似ている描写が頻出することは、見たみなさん誰もが感じたことだろう。ジブリ前の高畑、宮崎作品も想起させるところがある。列挙すると長くなるけど、
・主人公の赤い髪→『赤毛のアン』
・魔女→『魔女の宅急便』
・最初に仲違いする男友達→『魔女の宅急便』『赤毛のアン』『アルプスの少女ハイジ』
・お手伝い(ここは女中というべきか)の老女→『魔女の宅急便』
・魔法が発現するときの、粘度を感じさせる光→『天空の城ラピュタ』
・エンドア大学の腹に穴が開いたロボット→『天空の城ラピュタ』のロボット兵、あるいは『さらば愛しきルパンよ』のラムダ
・崩れたエンドア大学下の木の根→『天空の城ラピュタ』
・服の中からにょろにょろ出てくる魚的なものの大群→『崖の下のポニョ』
果てしなく挙げられる。が、別にそれ自体は問題ではない。実際、俺も見ていて笑ったぐらいだ(冷笑に近かったけれど)。それで面白くなっていればいいわけだ。
しかし辛かったなあ。ホウキの番をしているらしい人語をまくしたてるネズミ。小日向文世感満点の、いかにも「小難しい専門用語を話してます」的な話し方をするマッド・サイエンティスト。「ウキー!」とか言っておどけて見せる猿。校長役の塩沢とき。
ジブリっぽさにくらまされていた目が慣れて、しばらくして気づいたのは、「これ、子どものときにたくさん見た、勲と駿以外の全くつまらないアニメにそっくりだ」ということだ。
特に思い出したのは、『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』のことである。別に話が似ているわけではない。と思う。見ていないのだ。だから、「最もつまらない作品」としてこれを挙げているわけではない。
俺が思い出したのは、確か予告で使われていたはずのこのシーンだ。
(全編YouTubeで見られるとは…)
『メアリ』のここに似てるなーと思った。
(もちろん本編ではもっと長くやってる)
追ってくるものが、手とか鳥の足の形になることが面白いと感じるセンス。それが掴もうとしたとき主人公たちがフッとスピードを上げてすり抜ける時のスリルのなさ。当時の手塚治虫が、憧れの(リミテッドではない)フルアニメーションに挑戦するも、「カートゥーンみたいだ」と言われてしまった、そんなセンス。
展開をはしょってここから飛躍した感想を書いてしまうが、この2つのシーンが似ていることから、俺が『メアリ』に感じたのは「平たさ」だということに思い至ったのだ。
『2772』は、俺が記憶していたよりもずっとずっと動いている。絵も意外にきれいだった。ただ、その動きはまさに「カートゥーン的」で、平面的なのだ。画面の中にバーチャルな三次元空間が出来ているわけではない、と感じてしまう。
『メアリ』のアクションも(そして舞台となる場所の使い方も)、駿のパクりというには、あまりに平たいのだ。やはり駿の空間把握力(&再現力)が図抜けていたのだろう。マロ、お前は何を学んだんだ? と言いたくなってしまうが、それは酷な言い方すぎるかもしれない。
『ラピュタ』や『カリオストロの城』を見た人は、男なら誰でもあの“高所感”に必ずや玉ヒュンしたはずだ。女性もそれに準ずる感覚を覚えたことと思う。『メアリ』にそれを感じた人はいただろうか?
そんな平たさ、言い換えれば「奥行きのなさ」が、アクションシーンにとどまらず、人物描写やストーリーなど、あらゆるところにきっちり反映しているのが、実に、実に辛いところだと思った。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』で身につまされあう
今年の身につまされ映画2作目。
第1作『メッセージ』について書いたのはこちら。
shigerumizukiisgod.hatenablog.com
個人的な身につまされを抜きにしてもかなりの傑作だと思う。基本的にコメディでありながら、最後は心に何か暖かい感じがしつつどっしり重いものを残すという“感触”が『この世界の片隅に』に似ていると思った。
さらに言うと、笑わせ方がそんなにフルスイングではないところも似ている。
……と、大雑把に言うとそうなのだが内実は結構違っていて、『この世界』のほうは、“しっかり笑わせようとするならもう少し余韻を残すべきところをそうしないですぐに次のシーンに行く”というやり方。今作は“笑ったものかどうか微妙な場面や、深刻だったりごく普通だったりする場面をしっかり撮っていることの可笑しさ”というやり方だと思った。
大爆笑とか大感動みたいなカタルシスがないままに話は進む(ゆえに、ちょっともやもやするというか、一体これはどう捉えるべき話なのかと思わされたりもする)のだが、ある時、大きなカタルシスを迎え、そこでこの映画が描こうとしていた何かがくっきりと観客の前に立ち現れ、割と静かなエンディングを迎える。それなのに泣いていたりする、というところもよく似ている。
俺はこの映画の笑わせ方はめちゃくちゃツボで、しょっちゅう笑いながら見ていたのだが、周りの人はそんなに笑ってなかった。前の席の人が振り返って俺を見たほど。笑い方がうるさかったのならやや申し訳ないが(笑って何が悪い、という気持ちもある)、後でこの映画を見た他の人と話をしたら「笑っていること」自体が奇妙に感じられたのかもしれないと思った。
というのは、その人が実に深刻にこの映画を捉えていたのだ。笑ったシーンはドアを突き破るところ(確かにここも最高に可笑しい)ぐらいで、他はずっと辛い気持ちで見ていたようなのだ。
チキンと冷蔵庫のくだりについて、その人は、
「あそこが胸に迫る場面だったのに、急にドアを突き破るシーンが来るから、笑っちゃって」
みたいな感想だった。そしてそれからずっと泣きながら見ていたらしい。俺は「冷蔵庫のシーンからすでに笑わせに来てるだろ」と思ったのだが、その人はパニック障害的な反応に身につまされるものがあるみたいで、そういう反応になったようだ。
人それぞれにつまされポイントはある。
一方の俺は、ある人物(ネタバレを避けるために伏せるけれど)が泣くシーンで無茶苦茶身につまされ、実際泣いてしまったが、同時に可笑しくて仕方なかった。たとえ身につまされなくてもあそこはすごいシーンだ。あの「少し笑ってもいい」演技にさせる演出もすごいし、それを見事に完遂した演技が素晴らしい。ばっちりのバランスだ。その後のケイシー・アフレックの反応もすごい演出、演技である。爆笑した。普通はもっと感動に振るはずの場面だが、いわゆる「心情に寄り添うような」演出、撮り方じゃないところにうなる。たまらず泣き笑い、号泣&爆笑でしたよ。
ぐいぐい身につまされつつ思ったのは、
「辛い経験をした人、それによって言動がどうかしてしまった人というのは、気の毒ではあるが、客観的には可笑しく見えてしまう」
ということだ。おそらくこれは現実の世界においても事実だ。
もちろん俺の言動だって変だったら可笑しいものとして見られる。そうか、ということは身につまされっぱなしで終わってはいかん、この映画を教訓とし、変と思われないように気をつけて、落ち込みっぱなしではなく前向きに……ともちらっとは思った。ちらっとは。
そういうことよりも、「当人にとってはどんなに深刻でも、周りからしたらこれぐらいにしか見えないもんだ」という描写によって、俺はかなり気が楽になった……だからいい映画だと言いたいわけではないけれど。
こういう身も蓋もなく平たい、透徹した視点は、落語的な人間観かもしれない。
映画『メッセージ』のネタバレ感想プラスアルファ
「家内安全のお札をもらいに行くの、はじめさんも一緒に行かない?」
義理の母からそう誘われたのは、俺がまだ川崎大師に行ったことがないと言ったからだった。
「佑美が一度ぐらいは連れて行ったのかと思ってた」
笑いながらお義母さんはそう言った。確かに、すぐ近くにあるのだから、一度ぐらい行ったっておかしくはない。
お義母さんは毎年、お札を我が家のためにもらいに行ってくれていた。俺は、かつて忙しい部署にいて、土日もちゃんとは休めてなかったが、今は休める部署に異動している。その日曜日も俺は特に用事はなく、休みだったので、一緒に行くことにした。
当日、お義父さんとお義母さんと一緒に昼過ぎの京急大師線に乗り、川崎大師に行った。5月にしては暑い日だ。護摩焚きをしてもらい、お札をもらってから駅へと戻る道を歩く。
帰りの参道で、お義母さんが前から入ってみたかったという寿司屋に入り、ご飯を食べることにした。入ってすぐ、ビールを頼むお義父さん。俺もご相伴にあずかる。
昔から川崎に住む義両親の、昔の川崎大師周辺の話などを聞いたりしながら、寿司をつまむ。お義父さんはガンで内臓を多く取っているのでほとんど食べない。ビールも瓶の残りは俺がほとんど飲み、さらにもう一本追加した。
「昨日、『メッセージ』っていう映画を見たんですけど、身につまされてしまって」
と、俺は話した。
「え、どんなの?」
お義母さんは聞き返した。
「宇宙人とどうコミュニケーションを取るかっていう、SFなんですけど、割と地味な……主役も言語学者の女性で」
娘を病気で亡くした経験のある女性言語学者が、宇宙人の言葉を解読するよう軍に呼ばれる。声ではコミュニケーション出来ないようなので、文字でやりとりを試みると、どうやら彼らには時制がないらしい。現在も、過去も、未来にも区別がない。その作業をしている間にも、彼女は娘との日々を回想し、時にそれが解読のヒントになったりする。
その宇宙人の思考法に、文字の解読をとおして触れるうちに、主人公の意識も変わってくる。言語によって思考法は決定されるため、未来のことも“回想”できるようになっていく。
「それで、実はその亡くなった娘というのが、宇宙人の言葉解読プロジェクトを一緒にやっている男性科学者との間に出来る、まだ生まれていない子どもだったんです」
「へえー」
その時ですらまだ、俺は気づいてなかったのだからぼんやりしていた。身につまされた自分のことにだけ意識が向いていたのだ。
「最後は、彼女のその能力で、まあハッピーエンドになるんです。でも、主人公はそれから科学者と結婚して、娘が出来るわけですよ。その娘は将来、病気で死ぬってことがわかっているんだけど、それを避けるんじゃなく、その瞬間瞬間を大事にしようと思うっていう」
それは、俺がちょうど『中動態の世界』という本を読んでいるタイミングだったことも関係していると思う。
これこそ、まさに言語によって思考の枠組みが決まっていることの有力な傍証になる本で、なんともタイミングがよかったのだ。ただし、この本はSFではないが。
そしてまた、俺がここしばらくずっと、死んだ人のことを覚えているというのはどういうことか考え続けていたので、よりいっそうこの映画が他人事ではなく、“わがこと”に感じられたのだろう。感じられすぎていた。
お義母さんは、
「ふうーん。それでもそうやって、女性の主人公は生きていくわけだ」
そう言って、お茶を飲んだ。
お義母さんのその口調は冷静であったが、その時になってようやく俺は、この映画のストーリー、しかも俺が抽出して話した要素は、むしろお義母さんにとってのほうが、より身につまされるものであることに気づいた……。
しかし、謝ることでもない気がした。
「そうなんです。未来に良くないことが起きるとわかっていても、だからといって、その過程に喜びがないわけではない……」
少しでも俺に引き寄せるようにと思ってそう話したが、これはお義母さんにもまったく同じことだと気づいた。
「わけではないし、じゃあ結婚をやめるとは主人公はしないんですよ。だから、これから結婚して子どもも作るだろう、っていうところで映画は終わるんです」
少しは“結婚したときに予後がわかっていた俺”の話に修正できただろうか。
お寿司代は(お札代もだが)俺が出そうとしたのだが、払われてしまった。店の前でお礼を言った。
駅で電車を待っている間に、寿司屋ではほとんど黙っていたお義父さんが、
「でもあれだね、こうやってはじめさんと話してると、佑美がいたんだっていうことが感じられて、そういう意味ではいいもんだね」
と言った。
「そうですね。話すとそういう感じがしますね」
俺はそう応えた。
それは俺が思っていたことに近かった。ここにいない第三者のことを誰かと話すとき、いない人も幾分かはここにいる。生きている人もそうだが、亡くなった人だってそうだ。
どんな人とだって、ずっと一緒にいるわけではない。話題にしたり、頭の中で思い出したりしているときの方がたいていは多いのだ。「あいつがあの時さ」と言って思い浮かべている“あいつ”のほうが自分にとってのあいつである。
「ちょうど去年の今日、佑美が入院してたのよね。それではじめさんが花を買ってきて」
お義母さんが言った。
「あ、そうか、そうですね。結婚記念日だから。プリザーブドフラワーっていうの、買っていきました。そうそう」
「そう考えたら、早いわよねえ……」
それから、電車に乗っている間、佑美が亡くなるまでの出来事を時系列で振り返った。それは、折々に俺とお義母さんの間で繰り返されることだった。いつ入院して、どれだけ入っていて、そこでの様子がどうだったか、いつ具合が悪くなっていつから小康を取り戻したか。同じことを繰り返し、2人が主となって看病した最後のふた月あまりを整理し直すのだ。
「お誕生日だけど、どこか行ったりするの?」
駅で別れ際にそう聞かれた。
「いや、特に……。映画でも見るかなあ」
「また見るの?」
映画好きなのね、と笑いながら言うお義母さんとお義父さんに手を振り、改札前で別れた
『ガンダムUC』vs.オールドタイプ
『機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を、つまりテレビ版を最終回までやっと見た。
無知全開で、というのはこの作品にまつわるサブテキスト的なもの(もちろん原作の小説も)をほぼ入れることなく、さらにこの作品自体をちゃんと見直すことなく、最終回を見終わったあとに沸き上がってきたフィーリングのみで感想を書こうと思っている。間違いの指摘などあればぜひ。でも、あんまりディテールについて書くことはないと思う。
トピックは大まかに以下の4つだ。
1.ニュータイプって結局、超能力なんか?
2.フル・フロンタルの便利さと最終回での「なんやったんやあいつは」感。
3.「おっさん接待」以外にいいところがあったのか?
4.『イデオン』的世界観と『ガンダム』的世界観の食い合わせの悪さ。
最後まで見ない内の大まかな感想は、それはもう「こんなええもん見せてもろて……!」ということにつきる。
モビルスーツがビームで溶けたり、打撃でくだけたりするところをこんなに細かく、気持ちよく見させてもらえたら、そりゃあ京極はんも感涙だ。安彦デザインっぽいキャラデザもたまらん。
「これや! ワシが食べたかったんはこれや!」
おっさんたちもコースの初めの頃はそう思ったに違いない。わたくしは、コースの終わりのほうで違う味がしたからと言って、全部台無しだったとは思わない。よかったところはよかったし、それだけでも存在意義がある作品だったと思う。
1.
『機動戦士ガンダムユニコーン RE:0096』を見る限り、ニュータイプって「サイコフレームによって能力を拡張される超能力」に見える。これ、オカルト……というかイヤボン(ex.『サルまん』)的なものに見えて仕方ない。
ようは「この能力で何でも出来るやん、あんな人型機に乗らんでもええやん」という気持ちになってしまうということだ。
富野由悠季は多分、ニュータイプがどういうものかについてはぼんやりとした、尻尾を掴まれないような物言いをしていたように記憶している。しかし、こういう概念、というと上等な感じがするが、こういう設定をファーストに導入した理由を改めて想像させられたのだ。
ファーストにとってこの設定が都合が良かった理由の一つは、「主役機を変えなくていい」ということがあると思う。「替えなくて」としたほうがいいかもしれない。「リアルロボット的な世界」で、主人公が乗る機体を変える(替える)のは、「スーパーロボット世界」でよりもあまりよろしくなかろう。「強い敵が出現→より強い機体に」というインフレは「リアル」には感じにくい。
(もちろんこの問題はスーパーロボットにおいても存在している。ザブングル以前は逆に「主役機を変える」という発想がなかったため、主役機はそのままにジェットスクランダーが付いたり、パーンサロイドに合体したりして主役機を強くしていたわけだ。)
(Gファイターの話とかは省きますよ。そもそも横道の話だから。)
何が言いたいかというと、ニュータイプという設定は、「それほど嘘っぽくなく、主役を強くさせる理屈」としてまず導入されたんだろうなと思ったわけです。ついでにララァとの展開も、最終回も盛り上がるしね。だからニュータイプの能力はファーストの作中では「勘がいい」という風にしか描かれなかった。
それぐらいのものだったはずが、間に『Z』とか『逆シャア』とかあったにしても、ここまで万能になってしまうとなあ……と感じざるを得ないわけだ。
別に「ニュータイプという概念」が大活躍するところを見たくてガンダムを見るわけじゃないと俺は思うのだ。あくまで作劇上の方便だと捉えている。でも、人によっては「ニュータイプという概念」こそがガンガムシリーズを特別な作品群にしていると思うのかもしれないなあ、と思わされた。これは結構、深い溝である。
2.
ガンダムである以上、シャアは出て欲しい。それはもう、3.での話と密接に関わるが、シャアみたいな人が出て来ないとガンダムっぽく感じないのは仕方がない。
今までのシリーズでも「誰がシャアの役かな?」みたいな視点で見ていたわけで、そこを「赤い彗星の再来」という設定のフル・フロンタルを堂々と出してきたのは潔いと思った。庵野秀明に『シン・ゴジラ』でエヴァとのかぶりを気にしない勇気を与えたとも言われている(ウソ)。
シャアっぽいセリフを言ってくれるだけで嬉しいし、そもそも池田秀一の声なんだから聞けるだけで嬉ションで座面が湿るレベルだ。
だが、終わってみると「あいつなんやったんやろ?」という気持ちになる。「シャアみたいな人」以外の何でもないわけだから。しかし、本当に「シャアみたいな人」があの時代にいたとして、「ネオ・ジオン」て作るかね?
あれは「そっくりさん」だよね。ということにこの作品でもなっているわけだが、そういうやつがあれだけの組織を作れるものなのだろうか……。小説版にはもちろん色々書かれているのだろうな。ウィキペディアを強い心で見ないままにこの稿を終わる。
3.
ファーストガンダムを幼少期に見ていたおっさんとしてはたまらん映像が一杯出てきて、座面の乾く暇がなかった。もうそれだけですべて許す、というか許すなんて上から目線ではなく、感謝の気持ちに満ちあふれいてる。スタッフの皆さん、本当にいいものを見せてくれてありがとう! こういう映像が見たかったんです。最初のシナンジュとの戦闘シーンとか、思わず本気の声が出た。
これは『Gレコ』や『オルフェンズ』を見ていても感じなかったものなので、「新しいガンダム」ならいいということではない。この作品ならではの感想だ。もちろん『スター・ウォーズ エピソードⅣ』が特別篇になったときにもちらりとも感じなかった。
しかし、お話は正直、「ニュータイプという概念を便利に使って色々解決」というふうにしか見えず、ファーストやZを越える何かは感じられなかった。オールドタイプ(=おっさん)ゆえの感受性の鈍磨であろう。
もっとためになる感想はこちら。
(あらかじめこちらを読んでいたにもかかわらずこの体たらくだ)
4.
これももちろん想像だけで書くわけだが、原作はガンダム的世界とイデオン的世界を橋渡しするような、富野由悠季作品を統合する世界観を作ろうとしていたのではないかと思うのだ。魂がたくさん集まっていく、みたいな映像も時々挿入されていたしね。
その意気やよしなのだが、うまくいかなかったんじゃないかなあ……。しかしそれは、ガンダムが「リアルロボット路線」の嚆矢であり、イデオンが皆殺し皆殺しアンド皆殺しプラスニューエイジみたいないびつな作品だという知識=先入観が俺にあるせいで、気にしない人は気にならないのかもしれない。
オールドタイプは、ガンダム(=リアルロボット路線)だったら勝敗は機械の性能とパイロットの能力で決まって欲しいなと思ってしまうわけだ。そこを戦術でなんとかするとかね。ネオ・ジオングと戦って勝つ理屈を、あんな何かがピカーッと光って急にパワーがあふれ出すみたいなことではなくやってもらったほうが楽しめるのである。
イデオンなら何を起こしても問題はない。あれはわけの分からん先住異星人の遺構なのだから。しかしガンダムはそうではなく、コロニーレーザーを気合い一発で止めちゃったりせず、発射させないようにするところをサスペンスおよびドラマにして欲しいなとオールドタイプは思ってしまいました。
チャーハン成功譚・檀一雄風
写真を撮るマメさがない自分が悔しい……。
先日来の自炊、料理生活の一つの山場として、チャーハン作りに成功しました。野菜を炒める、麻婆系のものを炒め煮するというのとは違い、失敗すると大惨事になりそうなチャーハンには怖じ気づいておりました。しかし実際やってみると、ポイントさえ押さえればすんなり出来たので、嬉しくなって中華お玉まで買いましたよ。
ということで、画像はないので、大雑把料理文学界の先達である檀一雄先生にならって、読めば大体美味しいチャーハンを作れる文章を残しておこうと思う次第。
ある程度、中華鍋の使い方に習熟してくると——習熟してなくてもその味の良さのために——チャーハンを作りたくなる人は多いだろう。ぱらりとした飯に油が絡み、少し焦げた葱の香りがしたものをわしわしと、むしろざららざらと流し込むぐらいの勢いで食べるときの満足感は、格別なものだ。具材なんかは特別なものは邪魔で、ハムかチャーシューの切れっ端でもいくらか入っていればいいので、ようはパラパラした飯の食感と油との相性を食っているようなものなのだ。
特殊な、手に入りにくい道具や材料は不要だ。ただ、私が中華鍋を使っているから、これから以降は中華鍋を元にした作り方をご説明する。お玉も、現在は中華用のものを使っているが、私が最初に作ってうまくいったときは間に合わせの穴あきお玉だったのだから、必ずしも必須ではない。
まず具材を切り、すべてガスコンロの横に揃えて置いてもらおう。白ネギを10センチばかり粗みじんに切っておく。ハムなりチャーシューなりをこれも5ミリから1センチ角ぐらいに細かく切っておこう。ニンニクも一かけ、粗みじんにしておく。
肝心な飯は、必ず堅めに炊いておくこと。柔らかい場合は見送った方がよい。量は、多くても茶碗に一杯半までだ。それ以上多いと、いくら貴君の中華鍋が大きくとも、素人の手には負えかねると思う。
実は理想的なのはパックご飯である。これを電子レンジで温めたものは、もちろんメーカーによる違いはあるだろうが、ちゃんとパラパラにほぐれてくれるのである。
他に用意すべきは、卵を2個あらかじめ割って解きほぐしておくこと。塩とこしょう、醤油もコンロの脇に置いておいた方がいいのはもちろんだ。
さて、中華鍋をガスコンロで温める。これは中途半端な温め方ではお話にならない。中火で構わないが、家庭用の火力であれば、2分から3分は確実に温め続けなければならない。鍋から煙が上がり、それも終わって鍋の色が青白く変色してくるぐらい、辛抱したまえ。
温め終わったらまず油返しだ。お玉二杯分ぐらいのサラダ油を鍋に入れ、全面に回して馴染ませる。油は捨てるなりオイルポットに入れるなりして、いったん火を消し、そこに新しい油を多めに入れる。大さじで2杯ぐらいが適当か。
そこにニンニクの粗みじんを入れ、小さい火で温める。すでに鍋は熱を持っているので、小さい火でもすぐにニンニクの小片は揚がり始めるだろう。香りが立ち、ごく細かいものが茶色になり始めたら、すぐに次の工程だ。ニンニクが焦げてしまうと苦みが出る。
火はそのままで卵を投入する。すかさず飯も追いかけて入れる。「卵が半熟になったら」というノウハウもあるが、そんな余裕は素人にはない。たいていもたもたしている間に半熟になっているものだ。早くするにしくはない。
すぐにお玉の丸いほうで飯を押し広げる。かつまた、飯の固まっているところを切るようにしてほぐし、お玉でか、あるいは鍋を振って飯を裏返すなどする。飯を鍋肌に押しつけて焼くのと、ほぐすのを交互にしていくわけだ。
これをある程度繰り返していくと、飯粒に卵がまとわりつき、段々とそれぞれが分離、独立していく。そうなってきたところだ、火を強火にしたまえ。
そこでハムかチャーシューかを中に加える。塩を二つまみほど、こしょうをたっぷりふる。そこからさらにいためて飯の水分を飛ばし、表面をぱりっとさせるわけである。
飯がさらりと鍋肌を滑るようになったら葱を入れ、少しく炒めて葱の香りが立ったら、鍋肌から醤油を少し垂らし、ざっと混ぜて出来上がりだ。最後にごま油をたらし込んでもまた香りがよい。
「檀流クッキング」に似たかな……?
「ここが大事だな」と思ったのは、卵とご飯を入れ、ある程度ほぐれるまでは小さい火でよくて、ほぐれてから強火にするってところ。これは空焼き&油返しをしっかりしているから出来ることだと思いますけどね。
中華料理の強火幻想は根強いし、ネットでの調理動画でも基本、最初から最後まで強火だけど、ほぐすところまではじっくりやっても大丈夫でしたね。